国民の反発は「天の声」だ
(09.5.3 朝日新聞 オピニオン 耕論)
裁判員制度の実施が半年後に迫った昨年暮れでさえ、世論調査で「裁判に参加したくない」と消極的な意見が76%にのぼった=グラフ。最高裁自身が昨年4月に発表した全国意識調査でも、82%が消極的。国が多額の税金をつぎ込んで大宣伝をしたおかげか、国民の多くが制度の内容を知った結果、裁判員になりたくないという思いが強まったのだろう。
昨年11月、最高裁は裁判員候補者29万5千人に通知を送り、12万5千人から調査票が送り返されてきた。最高裁はそのうち2万2千人が「重い病気やけが」だと発表したが、29万人のうち2万人が重病や重傷だなんて、日本人は絶滅危惧種だとでもいうのだろうか。
国民の反応はやはり「天の声」だと思う。戦後の国の施策でこれほど反発を招いた例を私は知らない。裁判員制度には国会の全党派が賛成したが、国会と国民のねじれもまた深刻だ。
なぜ自分が人を裁かなければならないのかという国民の疑問に、国は説得的な回答をしていない。司法への理解が深まるという説明に、わかったとひざを打つ人がどれだけいるか。
市民の司法参加というと米国の陪審制が引き合いに出されるが、まやかしにすぎない。陪審制は、国家は市民に悪をなすという猜疑心のもとで、検察官の主張を市民がチェックする、被告にとっての「盾」なのだ。
だから、国は陪審制に強く反対した。最高裁は当時、国民には判断能力がないとばかりに誤判の恐れがあると主張していたのに、今になって裁判は難しくないと盛んに言っている。裁判員制度なら、プロの裁判官が素人の裁判員をリードできると踏んだのだろう。
今年初めに、東京都江東区のマンションで女性が殺され、遺体が切断して捨てられた事件の裁判があった。裁判員制度を意識した劇場のような法廷に悪評が集まったが、別の面でも制度実施の無理が明らかになった。
1カ月あまりの裁判で、公判が開かれたのは全部で7日。次の公判に向けた準備をする時間も少しはあった。しかし、裁判員制度では大半の事件で、3日から5日の連続審理で判決言い渡しまでするという。
この事件では被告が事実関係を争っていないのに、プロの裁判官でも7日を要した。3日の公判では、裁判員の選任手続きなどを除く実質の審理時間は、1日半から2曰くらいしかない。もはや裁判の名に値しない儀式の場になるだろう。
昨年12月には広島市の女児殺害事件で、無期懲役の一審判決を控訴審が破棄し、差し戻した。一審は裁判員制度を意識して審理の迅速化を図るあまり、犯行場所を「アパート及びその周辺」とあやふやにしたまま判決を下したのだが、それではだめだと控訴審に突き返されたのである。これでは真相の究明どころの話ではない。
私は今の裁判がいいと決して思っていない。法廷で壁に向かって物を言っているような体験を、山のようにしてきたからだ。ところが、そんな裁判所自らが処罰を振りかざして国民を動員し、裁判の仕組みを変えようとしている。
国民の要求があってはじめて、司法への市民参加といえるのだ。国民が求めない裁判員制度を発足させてはならない。
(聞き手・今田幸伸)
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