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「どうする裁判員制度」パネルディスカッションから

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「どうする裁判員制度」パネルディスカッションから(1)

(09.5.3 憲法を考えるやまがた集会)

【ご紹介】
5月3日に山形市内で開かれた憲法記念日集会(青法協山形県支部・自由法曹団山形支部・日本科学者会議山形支部・日本労働弁護団山形ブロック・日本民主法律家協会山形ブロック・山形センター合唱団主催)で行われたパネルディスカッションと会場質問・応答の部分を要約してご紹介します。最高裁作成のドラマ「審理」の上映後、「裁判員裁判で冤罪は防げるのか」の演題で私(高山)が1時間ほどお話しし、その後に行われたものです(講演部分はご紹介を割愛しました。)。

司会は外塚功さん(弁護士)。パネラーは、発言順に金澤真理さん(山形大学准教授)、川井功さん(模擬裁判の裁判員経験者)、佐藤満さん(刑事弾圧事件元被告人・国民救援会)、佐藤欣哉さん(弁護士)、そして私。約100人のご参加という盛況の集会でした。録音反訳を要約したのですが、急いだため誤訳があるかもしれません。文責は私です。


司会:高山先生の講演を受けてシンポジウムを開催する。先の講演でもう言うことはないかも知れないが、会場から疑問、不満、問題点などがあれば出してほしい。最初に、パネラーから自己紹介を兼ねて裁判員制度に対しひとこと発言を。

金澤さん:刑事法を担当しているので、その観点から話をしたい。刑事手続きにおいて、一番大切なことは無罪の発見であり、えん罪を生まないということである。法律では、巨大な捜査権力と対峙させられる被疑者・被告人の権利を保障し、適正な手続きを踏まなければ処罰できないとしている。えん罪や誤判を生む構造は複雑だが、第1には捜査段階に、第2は裁判の事実認定の場に、それぞれえん罪を生む要素がある。

捜査は、特定の犯罪行為を被疑者が行ったかどうかの判断を裁判所に求めるため調べる手続きであり、裁判ではない。しかし、日本では、人質司法といわれるように、長期間捜査当局のもとに身柄を拘束され、自白が強要されるという問題がある。人は身体を拘束され、家族や親しい人、弁護人などと会えないでいると、嘘でもよいから自白して自由になろうと思ってしまう。ところが、その嘘の自白が公判廷でも軽々しく信用され、有罪となる。身体が拘束されて行われる取り調べが当たり前のように受け入れられていることが問題であり、法律上はあってはならないことである。

第2段階の事実認定では、裁判官は予断を持たず、公正な判断を行うことになっており、公判前は起訴状以外を見ないという「起訴状一本主義」を取っている。裁判においては推定無罪で、検察官が立証を尽くしても、なお、合理的な疑いが差し挟まれる場合は有罪にしてはならないと定められている。

捜査の段階でえん罪を生まないようにするというのは、直接は裁判員制度とは関わらない。むしろ、裁判員制度の導入とは関係なしに誤った捜査は一刻も早く止めなければならない。

裁判員制度と関わるのは事実認定であるが、被告人の権利を保障し、公正で適正な事実認定ができる仕組みを裁判員制度が用意できているかというと、高山先生の講演にもあったように、そうではない。特に、公判前整理手続きで論点を整理されてしまうと、そこで裁判官は証拠を見てしまう。あるいは論点整理に加わるので、裁判官は偏見や予断を持たされてしまう。しかも検察官と弁護人では圧倒的な証拠収集能力の差があるにもかかわらず、検察官による証拠の全面開示が実現していない。被告人が無罪だと主張しても、そのための翼がもがれている状態と言わざるを得ない。

また、合理的な疑いが差し挟まれない程度に検察官が立証しなければならないということが刑事裁判の大原則だが、多数決で決められてしまうと合理的な疑いの余地があっても有罪になってしまうということが出てきかねない。

私が強調したいのは、制度が民主的にできているかどうかとか、市民が裁判に参画できる能力があるかどうかという論点も大事であるが、もう一度、原点、えん罪を生まない刑事裁判という基本原則に立ち戻った批判をする必要がある。

特に、各地の模擬裁判ででてきたのは、責任能力の問題である。責任能力の判断は難しいからわかりやすくしようという名の下で、その責任主義・責任原理がないがしろにされそうになっている。刑事裁判の根幹にも関わることなので、今後も注意して取り上げていきたい。


川井さん:模擬裁判に応募し、「是非、やりたい」という人が6人集まった。高山先生は「陪審制には賛成」ということだったので、基本的には私の意見と一致している。ただ、アメリカでも陪審員は6人というところもあり、審議会もアメリカの陪審制を参考にして裁判員制度を考えたのではないか。量刑についても、死刑も陪審員が判断するところもあるし、多数決で評決するところもある。「やりたくない」ということには、人間の慣性の法則が働く。新しいことをやろうとするとやめておこうということだ。フランスでは、死刑廃止はミッテラン大統領が選挙公約にしたので、世論が盛り上がっていないのに決まった。選挙権は行使しなくても処罰されないというが、南米などでは棄権すると処罰される国もある。裁判は原則公開だが、通訳にも守秘義務がある。「通訳を間違ったと言われたら困る」からで、つまり、裁判の沽券に関わるようなことを言われるのは困るということだ。刑事訴訟法も破綻を来している状況にあり、アメリカ型の陪審制に立ち返ってより良きものにしていきたい。

佐藤満さん:私は国民救援会に参加している。国民救援会は人権と民主主義を守る運動で、えん罪支援をしている。裁判員制度についての根本的な問題をいろいろと考えたが、問題は、警察・検察組織の民主化ではないかと思う。警察官が犯人と思われる人を逮捕するが、思い込み捜査でえん罪が始まる。状況証拠で犯人と思われる人を逮捕するが、疑われた人は逮捕・拘束され社会から隔離されたことで、自分自身を取り巻く人たちへの影響を考え、精神的ショックを受ける。否認すれば、勾留日がどんどん伸びていく。捜査官は「家族も心配している」と言いながら、家族とも面会させず、精神的に追い詰めて、証拠もない人に自白させる。裁判では、その自白一つで有罪になる。えん罪を生まないためには、警察・検察は物的証拠がなければ逮捕してはならないとすべきだ。裁判員制度でも、裁判員は物的証拠がない人は有罪にしないということが重要だと考えている。

佐藤欣哉さん:1980年代、最高裁でも死刑判決を受けたが再審で無罪を勝ち取った人が4人もいた。なぜ、無実の人が死刑囚にまでなるのかということで、日弁連は裁判員制度を変えなければならないという運動に取り組んだ。

この運動の中で登場したのが裁判員制度であり、無実の人が救われる、間違って処罰されることがない制度であるかどうかを考えるのが核である。しかし、実際は、裁判員裁判は3人のプロの裁判官と6人の素人の裁判員で判決を出す。そうなるとどうなるか。例えば、山形であった模擬裁判では、量刑判断で午前中はプロの裁判官は黙っていたところ、6人の裁判員が一生懸命議論して「これは無罪だ」と言うことになった。しかし、午後の評議の冒頭、裁判官が「こんなのは今までのケースでは有罪ですよ」と言ったところ、裁判員全員が有罪になってしまった。

プロの裁判官が無実の人を死刑囚にまでした過ちを是正する制度だったはずが、裁判官の意見に裁判員が同調するだけになっている。また、裁判員は量刑まで判断するが、今は重罰化の流れになっている。殺人事件で言えば、戦後、一番殺人事件が少なかったのは去年だ。裁判員裁判は凶悪犯罪が対象だが、事件件数は減少している。にも関わらず、みなさん方は凶悪犯罪がどんどん増えているような感覚を持っているのではないか。本当は違う。もっと冷静に私たちは裁判の仕組みを考えなければいけない。

司会:いろいろな問題点について、会場からの発言を受けたい。本来、裁判員裁判が目指したものは何だったのかということを整理して話してほしい。高山先生からは「市民参加の欺瞞性」が指摘された。私たちが今日、テーマにしているのはえん罪防止であり、今までの裁判があまりにも問題があるので、裁判員裁判がその是正に機能しないのかという視点で考えている。大抵の方は否定的だが、この制度には何も良いもの、力はないのか。

金澤さん:裁判員制度がどのような視点であるかということは、高山弁護士や佐藤弁護士が言われたとおりである。今の裁判に対する問題提起はあったし、裁判員制度に利点はあったと考えている。ただし、これは裁判員制度そのものの利点ではなく、裁判員制度を導入するからということで、報道の姿勢が変わったり、捜査の可視化の議論がでてきたりしたということだ。証拠開示システムについても、部分的にでも改善が図られるようになった。


高山:外塚先生のたってのご要望なのだが(笑)、結論から言うと良いところはまったくない(笑)。外塚先生や佐藤先生のような私の尊敬する人権派の弁護士を裁判員制度推進側になんとか立たせたいという目論見がある。そこで先生方は苦闘(笑)しておられる。お二人だけでなく、一生懸命刑事弁護をしている人たちの中に、裁判員制度下でどう弁護をしようかという思い悩んでいる人たちがいる。私はそのことが非常に悔しい。

実は、私は外塚先生とそれから会場にいらっしゃる高橋先生とご一緒に、米沢支部で交通事故事件をやって、無罪になったが判決まで7年かかった。一方で、これからやろうとする裁判は3日や5日。交通事故事件は危険運転致死罪にならない限り裁判員裁判には対象ではないが、一つのものの考え方として言う。7年かかる事件を3日や5日で判決を出せと言われたら、それは検察官が起訴状に書いた控訴事実をそのまま認めるしかない。中には被告人が同情を買って無罪になるケースもあるかもしれないが、えん罪は確実に増える。「増える」などという落ち着いた言葉では言えないほどだろう。気分で判決を書くことになるのだから。

今より、悪くならないのではないかという意見があった。私はそう思わない。ここで出た死刑判決は「市民感覚から乖離していると非難していたみなさんの代表が加わって下した死刑判決だ。国民の代表が参加しているのだから文句はあるまい」となったら、今よりずっと悪い。我々は「批判」というカードが使えなくなる。

また、模擬裁判をやった人は飛び切りのエリートだ。自分からやってみようと名乗り出た人なのだから。その経験を通じて、やりたくもないのに引っ張られたという人の心境や状況を推し量るにはかなり慎重でなければならない。やろうとする人は一生懸命勉強もしてくる。「未必の故意」って聞いても、狭苦しい部屋で恋をすることじゃない(笑)ってことが分かる。しかし、やりたくない人は難しい言葉を聞いても分からない。それで当然だ。そんなこと知りたくて生活してるわけじゃないんだから。死体を見ても驚かない人が裁判官として全国に2千何百人、弁護士が2万何千人いる。自分はそういう衝撃に耐えることを職業をかけて誓った人たちだ。

先のDVDで、女性の裁判官が女性の裁判員に「みんなも悩んでいる。頑張りなさい」と声を掛けるシーンがあったが、裁判官は決意してなったのであり、呼び出された人は何の決意もしていないのだ。同じに並べられたらかなわない。外塚先生には申し訳ないが(笑)、どこをたたいても、何をどう考えてもよい話は出てこない。

司会:大変分かりやすくて、なんと言ったらよいか(笑)。ここからは会場から意見を求める。結論を出すのではなく、言いっぱなしという集会を17回やっている。おさらいの意味でもう一度佐藤先生に問題点を整理してもらう。

佐藤(欣)さん:先ほどのDVDは最高裁が作っている。最高裁が作ったから問題の内容かというと、裁判員制度の本質を考える上ではよくできている。裁判官と裁判員が議論する場面で、裁判長が「検察官が、合理的疑いがない程度まで証明できたかどうかが問題だ」と再三繰り返している。刑事裁判の本質はそこにある。先ほど、川井さんが「えん罪事件の要因に弁護人の問題がある」と指摘された。それを否定しないが、裁判は検察官の主張と弁護人の主張とどっちが正しいかに軍配を上げるものではない。検察官が、被告人は有罪であると疑いのない程度まで立証できたかどうかが問題だ。極端な話、弁護人はジャブを打っていればよいのだ。そういう制度だ。無実の人が救えなかった弁護人の責任をクローズアップしなければいけないというが、それがすべてではない。最高裁が作ったDVDで裁判長が指摘していることを考えなければいけない。しかし、実際、一線の裁判官は軍配説である。検察官と弁護人のどちらに説得力があるか。それに軍配を上げたがる裁判官の体質がある。

その中で裁判員制度を考えると、先ほどから出ている公判前整理手続きがある。裁判員が出てくる裁判の前に裁判官と検察官、弁護人でこの事件の争点を整理する作業をやる。法律には非公開とは書いていないが、事実上は非公開で行われている。そこで弁護人と検察側の主張を争点ごとに整理し、その後、裁判員も登場する法廷で証拠調べをする。すると感覚として軍配説になっていく。

先ほど、高山さんが無罪をとるのに7年かかったと言った。その7年の間に争点が変わったことがあったと思う。最初に想定した争点のままずっといくというものではない。実際、裁判官、検察官、弁護人、だれも事実を見ていない。法廷に出てくる証拠から本当の事実は何かを考える。そうすると争点が移っていく。ところが裁判員制度では、一度、公判前整理手続きで決められた争点を動かすことができない。弁護人は裁判に入ったら、新しい争点を言ってはいけない。そうなると、最初の争点設定が正しいかどうかが極めて重大な問題になる。

そこで問題になるのは、弁護人に捜査能力がないことだ。検察官は警察と一緒になってすべての証拠を持っている。有罪の裏付け証拠だけでなく、無罪につながる証拠を持っていることも十分ある。それをすべて弁護人に見せた上で、弁護人に「争点を設定せよ」というのならまだ分かる。しかし、検察側は弁護人にすべてを見せない。裁判員制度導入と言われてから、以前よりは少し見せるようになった。しかし、我々はすべてを見せろと要求しているが、これは実現しそうにない。そうなると最初から弁護人・被告人はハンディを背負った状況にある。

もう一つ問題は、先ほどから問題になっている自白である。先ほどの4つの無罪事件も捜査段階で嘘の自白をさせられている。嘘の自白をさせられたと、どうやって裁判で証明するのかというと、これは至難の業である。

弁護士会が要求しているのは、取り調べ過程をすべて録画せよということだ。しかし、これにも警察は絶対に反対している。検察は、最後の調書ができあがる段階なら録画してもよいと実験的に行っている。全取り調べ過程を明らかにしなければ、本当の意味で自白の信用性が判断できるかという問題がある。

これらを含めて裁判員制度には問題がある。もっとあるが、これくらいにしておく。


司会:こちらからだけメッセージを出してきたので、ここから会場からの発言を求める。

男性:裁判員制度は、法曹人口の増加などの司法制度改革との関係、新自由主義といわれる小泉構造改革の一つの現れと言われているが、これをどうみるのか。また、模擬裁判は600回行われたというが、シナリオがあったのではないか。最高裁のビデオでは証拠の吟味が行われなかったように見えたが、証拠がなかったのか。正当防衛を大きなテーマにしたこともおかしいのではないか。何らかの意図があったのかと思えて仕方がない。

さらに設定では被害者は死んでいるが、生きていれば当然、暴行をふるった罪に問われなければならず、死んでしまえばすべて無罪で、生きている方だけが徹底的にやられるというのはおかしいと思う。解説してほしい。

司会:鋭い質問で、そこまで考えずに見ていた。そもそも司法制度改革が始まったのは新自由主義との関係があるが、そこは高山先生が本にも書かれているので高山先生に、後、金沢先生にも発言願い、模擬裁判は弁護士が触れる。

高山:法曹人口のことは新聞にも時々出てくるが、司法試験の合格者を近々年3千人にし、さらにその上を狙うという方針になっている。司法制度改革審議会が2001年6月に行った答申の中で、裁判員制度と一緒に弁護士の増加を言っていた結果である。2001年6月は小泉内閣が発足した時で、首相は「司法制度改革を国家戦略と位置づける」と言った。その中に弁護士激増と裁判員制度があった。

弁護士の激増は、弁護士を食うや食わずの状況に追い込んでゆく政策だ。その結果、人権だの平和だのよりも明日の生活を考えるだけになる。その兵糧攻めが今の情勢では大事だと考えた。追い込めばどうなるかは、戦前の激増経験で彼らはよく分かっている。弁護士は戦争政策に協力していったのだ。「満州国の司法官は弁護士にやらせろ」などとも言った。満州国の司法官は日本の大陸侵略の先兵だ。結局、人権擁護の弁護士が戦争政策の先兵になった。すべては激増で弁護士が窮乏化した結果だった。

また、裁判員制度の問題も絡む。裁判員制度は、国民にこの国を守るのは自分自身だという自覚を持たせる政策だ。これも時代を反映している。危険な時代には確実にこういう発想が生まれてくる。隣組がそうだった。徴兵制は日本を守るために戦場へ行って、敵国の民衆を殺してこいということだ。裁判員制度は我が国の中で悪いことをする奴に死刑判決を下す作業に協力しろということだ。裁判員制度は現代の赤紙と言われる理由がここにある。

危険な時代の徴表として裁判員制度と弁護士激増政策がある。ともに新自由主義政策、日本では構造改革と言ってきたが、その所産だ。つい最近、樋渡検事総長が奈良で講演を行い、「規制緩和、構造改革の中に司法制度改革が位置づけられる」と言った。審議会の答申にも「政治改革・行政改革・規制緩和などの経済諸改革の最後の要としての司法改革」という言葉が出てくる。途方もない弱肉強食政策で、「生きさせろ」と叫ぶところまで民衆を追い込んだ新自由主義政策の中に司法改革も裁判員制度もある。

金澤さん:高山先生がおっしゃったことに尽きるので、わかりにくいと言われた正当防衛について述べる。正当防衛はまだ、相手から襲われそうなときにだけできる行為である。いくら自分が殴られたり階段から落とされたりしても、終わってしまえばできない。やられた分をやりかえすではない。証拠の吟味が十分ではなかったという指摘は鋭い。ビデオは最近、学生と一緒に見たが、その時言ったのは「刺されているのは正面、胸である。だから立ち去りかけたという目撃者の証言とは合わない」ということだ。少なくともそこは弁護士さんに頑張っていだだいて、襲ってくる可能性があったのだと主張してもらいたいポイントである。むしろ、可哀想だとか、何も落ち度がないのにということではなく、自分が襲われそうで、家族を守るために仕方がなく凶器を出したということを争う事案で、その証拠の吟味をすべきだった。そうではないところに視点をずらそうとしているならば、確かに意図がある。

佐藤(欣)さん:小泉首相時代、首相官邸のホームページに「なぜ、今、司法改革が必要か」というくだりで、こう説明している。「今日のように社会が複雑多様化し、また、構造改革が進んで、事前規制型社会から事後監視型社会に転換していく中で、司法の場で紛争解決の機運が一層高まっている」。要するに、構造改革の中で規制緩和をする。そうすると問題が起きる。そこは司法の場でやればよい。自己責任、自助努力の問題では、国民が裁判員となって司法に参加し、みんなで事後監視していけばよい。治安機構の一部を国民に担わせる。このようなことを端的に首相官邸のH.P.は言っていた。

ビデオについては、一定の評価をしたい。例えば、被害者参加制度の問題、あのビデオを見て、被害者参加制度がよい制度だと思うか。裁判員制度と被害者参加制度はセットになって導入されている。被害者遺族は「自分の息子は優しかった」と述べ、「最大の刑を下せ」と言っている。しかし、あのビデオで見る限りは、殺された点はさておき、同情できる被害者かということをリアルに見せている。しかし、実際の裁判では、あの被害者が殺されるような状況を作ったということを、どこまでリアルにできるか難しい。ドラマだからできているが、被害者参加制度で法廷に被害者遺族がいた場合、弁護人が「あなたの息子が極めて問題な行動をしたから、被告人が殺さざるを得なかった」とどこまで言えるか。実際問題として。弁護人は言うべきだと言われるだろうが、光市母子殺害事件では、被告人のために一生懸命弁護したが「あの弁護は何だ」と徹底批判を受ける状況だ。あのビデオでも、どこまで被害者の母親を前にして言えるかという問題がある。

私も国民救援会に参加しているが「国民救援会で上映するときは、絶対にビデオだけを上映するのではなく、裁判員制度の問題を理解する弁護士が解説すべきだ」と言っている。

川井さん:私が参加した模擬裁判は過剰防衛で、範疇としては似ている。模擬裁判で私はとっさに「誤想防衛が考えられる」と言った。危険が迫っていたと逃げ回っていたが、相手と離れすぎているからだ。しかし、裁判官は「別の話だ」と打ち切った。想定外のことを言われると裁判官は対応できないという感じだった。

司会:山形では12回くらい行われた模擬裁判だが、意図的なものを非常に感じた。裁判を短く終わらせる訓練をさせられているのは事実だ。裁判員裁判が導入されたとき、県弁護士会会長をしていて、一番、議論したところだ。量刑に関与させるかどうか、被告人の裁判員裁判かプロの裁判かを選択する権利を認めるべきだとかを議論した。裁判員と裁判官の人数についても日弁連内で激突した。しかし、結局は大きなものに流されたというのが今の感想だ。


男性:質問と意見がある。質問の1つは、高山さんの話を聞いてそのとおりだと思うが、あえて質問する。改善の見通しもないのにだんだん改善していくというのは無責任と言われたが、絶対反対、絶対阻止というのも無責任ではないか。2つ目、無罪が4人で有罪が5人で負けてしまった場合で、有罪説が死刑、無期懲役、有期刑に意見が分かれた場合、無罪を主張した人たちが量刑判決でも無罪を主張し続けることは可能か。

意見としては、警察・検察の民主化に加えて、裁判官の民主化が必要だということだ。5月3日の『朝日新聞』の「耕論」で佐木さんは「裁判官が必ずしも健全な社会常識を持っていない」とある。裁判官が市民の立場に立つのが重要だ。

高山:改善論と同じく絶対阻止も見通しがないのではという趣旨の質問と思うが、全然そうではない。導入されるとは、この段階でもまったく思っていない。

このまま導入できるかどうか一番心配しているのは、最高裁と法務省だ。無理だという議論が彼らの内部でもたくさん出ているが、表面ではやるといっている。やるといった以上はそういう形を取るしかない。詳しく言うと特定できてしまうが、最高裁というのは一カ所しかないから(笑)、どういったらいいか、ある裁判所に詰めているある全国紙の記者から「最高裁は一生懸命裁判員制度実現と言っていればいいのだ。実現できなければそれは高山たちが反対して潰れたと(笑)、それでいいのだ、給料も減らないし(笑)と。彼らはそんな考えでいる」と言われたことがある。「実に冷静な世界です」と。決められたことをやっているだけで、実際にやれるかどうかは冷静に見ている。

これでやれるのかという議論でキリキリしているのは自民党など諸政党だ。今日は議論していないが、国会内に「裁判員制度を見直す議員連盟」ができた。共産党をのぞく全政党が入っている。共産党からは仁比さんがちょっと顔を出して消えた。各政党がそういう状況になってきている。法務省と最高裁は戦々恐々の状況なのだ。あと17日。潰れる可能性が十分にある。簡単に見過ぎているということは、決してない。

2番目の質問についてはどなたかにやってもらい、3番目の裁判所の民主化について言えば、ご意見のとおりだ。裁判官がおかしいから市民に参加してくれということかと言うと、彼らはそんなことはない、裁判は正統だ、裁判は間違っていないと言う。もし、佐木さんが言うように、裁判官が非常識だというのなら、裁判官を常識家にすることが先決だろう。裁判官の非常識をそのままにしておいて、みなさん入ってくれというのはおかしい。その議論のおかしさに佐木さんが触れないのは、佐木さんのおかしさだ(笑)。

金澤さん:2つ目の質問だが、おそらく法律を作った人はそんなことを考えていない。法律では評議で意見を述べなければならないとあるが、その時に、必ず自分の意見を曲げなければならないとは書いていないので、解釈の問題として言えば、頑張る余地はある。ただ、ここからが本来の問題だが、裁判員から外されてしまう可能性がある。それこそが排除だと批判はできるが、これでは評議ができないとなると外されるかやり直しになる。しかし、当局は、そういうことが起こるということを想定していないと思う。

佐藤(欣)さん:結局、多数決なので、5人が一致すれば最終的には決められると思う。
高山さんは自信を持って、裁判員制度は実施させないと言われるが、そこは弱気になってどうすると言われそうだが、実施される以上は、弁護人として被告人の権利をぎりぎりまで追求してやるべしという意見だ。少なくとも3年後の見直しという規定がある。 実施されていないのに見直し、見直しというのも(笑)おかしな話だが、実施されたら、量刑判断を裁判員にさせるなと言いたい。

佐藤(満)さん:裁判官の問題では、今、高山先生がお話されたとおりだと思う。


女性:私は19歳のとき、集団暴力事件に関わって、検察で調書を取られた経験があるが、私の言ったことと違うことが最終的な調書として出てきた。これは違うと言ったが、大変だった。「今よりましになる」と金澤先生がおっしゃったが。

金澤さん:いえ、私、全然言っていません(笑)

女性:可視化のところで、利点があると。

金澤さん:制度とは関係ないと言うことで。

女性:私は、あの調書だけが裁判員の前に出されて読み上げられると、えん罪が増えると思う。一番の問題は「やってもいないのに『やった』と言う訳がない」という裁判官の自由心証主義だ。私が尊敬する青木英五郎先生は『誤判に至る病』にそのことを書かれている。80年代は再審無罪が続いたが、今、また重罰化が進んでいる。それを日弁連がどうして無罪判決が続いているなどというのか、理解に苦しむ。死刑になるかもしれないのに自白する心理を理解しなければならない。だからこそ、市民運動として陪審制度要求があった。しかし、裁判員制度はそれのすり替えでしかなく、それが構造改革だ。ところが日弁連の中には政治オンチがいて、構造改革と全体像が見えていなかったと思う。そこに私たちは騙されないようにしなければならない。

一番良い例が消費税で、後期高齢者医療制度、さらに介護保険だ。樋口恵子は政府の審議会に入ったが、あの人は「高齢者福祉をよくする女性の会」で革新側に立っていたが、「良い制度だが、手直しが必要だ」という論陣を張っている。あれは取り込まれたのだ。一旦、導入されるとものすごいエネルギーを費やして回復しなければならなくなる。障害者自立支援法、山形のゴミ問題、一旦、有料化すると大変だ。それと同じこと。

川井さん:司法制度改革審議会で陪審制度が語られたとき、委員として反対したのは曽野綾子だった。

高山:この人は裁判員制度にも反対しているけどね。みんな反対している(笑)。

金澤さん:可視化についてだが、今、可視化がなされているとは受け取っていない。ただ、今までは捜査の可視化など鼻もひっかけない話だったが、裁判員制度が出てきたことで導入となったことは評価できるかなと考えている。今でも無理な自白の強要が行われていると思っている。佐藤弁護士からは取り調べ過程の全録画と言われたが、私はそこに是非、弁護士の立ち会いを入れて主張してほしい。録画では編集されてしまう可能性もあるし、「それを言ったらあなたは不利になる」という適時のアドバイスも必要だ。むしろ、弁護士の立ち会いを求める改革が必要だ。

高山:女性の方がおっしゃったことは非常に共感する。もし、今、青木英五郎さんがいらしたら「とんでもない議論をやっている」と言われるのは間違いない。日本の陪審論者は非常に浅薄で、話にならない。本当に陪審制を日本で定着させたいなら、裁判員制度反対をなぜ言い続けないか。にわか陪審論者はにわか裁判員論者。コロコロ裁判員制度賛成論者になって嬉しそうな顔をしている。

弁護士の中に政治オンチがいるのではないかと言われた。実はもっと悪い。分かって言っている。今、自分たちがどういう役割を演じるべきか、官の意思を忖度してその立場を取ろうという陣取りの仕方をする弁護士が生まれているのだ。その悪さを見ないと「みんな、少し愚かだった」という過失の反省になる。彼らは故意犯なのだ。

司会:日弁連は、取り調べの弁護士立ち会いについては、一度も旗を下ろさず頑張っている。それだけは言っておきたい。政治オンチと言われたが、私が日弁連の理事をやっていたころは、新自由主義の暴風雨だった。だから、このままでは弁護士会が崩壊するので導入しようという議論に押されてしまった。


男性:高山先生の話を伺い、問題の全貌が理解できた。その上で枝葉の議論かもしれないが、今日は憲法記念日だ。憲法は意に沿わない苦役を禁止し、職業選択の自由も保障されている。裁判員制度はまさに解釈改憲ではないか。憲法と矛盾することを推進側はどう説明しているのか。

高山:裁判員制度と改憲の動向を結びつける本質的な質問だ。苦役の禁止は憲法18条に規定されている。「犯罪による処罰の場合を除いてはその意に反する苦役に服させられない」とある。単に「苦役に服させられない」のではなく、「犯罪による処罰の場合を除いて」とわざわざ例外を置いている。だから、どう考えても「裁判員をやりたくない」と言った場合、それを保障しない訳にいかない。「裁判員になる場合を除いては」と書いていない(笑)。

憲法違反でない論拠がみつからないので、批判する人は「冗談じゃない」の一言で終わるが、裁判員制度を合理化したい憲法学者はつらい。ある人は「根拠は民主主義」と言った。民主主義は基本的人権、民主主義、恒久平和という憲法3原理の一つだ。しかし、そんな風に「民主主義」が使えるのなら、それこそなんでも言えてしまうだろう。民主主義を理由にすれば何でもできるというのは、もう法律論ではない。そんな理論でしかものを言えないというのは、「論拠はない」と言うのに等しい。

なぜ、やらされるのか。佐藤欣哉さんではないが、先のビデオは教訓になる。「つらい、つらい」と言っている登場人物に言葉を返したくなる。「つらいでしょう、それをなんでやらなきゃいけないんでしょうね」って。ドラマは最後は有罪で終わる。そのたとえようもない重さ。「12人の怒れる男」は、最後は無罪になって雨上がりの空は青空だ。最高裁ご調製ドラマは最後は有罪で、オチの話も全然楽しくない(笑)。テレビドラマなら最後はひとひねりしたおもしろい話になるのに、さすがは最高裁だ。
というわけで、「民主主義」という言葉でしか説明できなかったことから考え、捉えてほしい。

川井さん:それに応えるなら、国際人権規約のB規約8条に「市民的義務は苦役ではない」とある。市民的義務は陪審員などで、日本でも証人喚問がこれに当たり、処罰規定もある。

旧陪審では、辞退者が多くてやめたのではなく、公式には「戦争のためにやめた」とある。陪審の延長にある裁判員制度は平和主義だ。戦争の時代には一般人を裁判に関わらすことはできない。旧陪審制度では、高納税者でなければ陪審になれず、窃盗などの被告人は貧困層のため、不評だった。もう一つ言うならば、教育である。教育基本法は改悪されてしまったが、これからは小・中・高・大学で陪審員のための教育が進んでいくと思う。そうなると辞退者がなくなり、教育の結果で法律が市民のものになる。

高山:陪審は権力に対する深いペシミズムを基本にしている。そこには自分たちが参画することが反権力の実践として重要な意味をもつという憲法的確信がある。陪審の精神を抜きにして、国民の裁判関与が国連の人権規約に規定されていると言ったって始まらない。裁判員制度は陪審の延長にあるものではまったくない。そのことはさきほど詳しくお話ししたはずだ。

また、日本の旧陪審は戦争でやめることになったというのは正しい言い方ではない。米国陪審とはまったく違う「日本独自の陪審」が1928年に始まったが、始まって3年目、1930年の法律新聞の見出しは「大きな期待もはずれ、不人気な陪審制度」というものだった。実際、その年から実施件数は早くも全国で年30件程度に落ち込んでしまった。最後は年4件とか1件とかで消えていったのだ。戦争のためにやめたというのは、あなたも認めるとおり「公式の説明」。実際は始まって3年目にもう破綻していたのだ

また、裁判員制度は平和主義の産物であるかのように言うのはとんでもない話だ。これもさきほどお話ししたとおり、危険な時代だから裁判員制度が登場したのだ。戦前、大陸侵略のあの時代に日本型陪審制が登場したのに異様なくらい符合する。危険な情勢と国民動員はまことにピッタリ合っている。


司会:時間の関係で、後、2人まとめて質問を受け、これに対してパネラーから答えと感想とを述べていただく。

男性:個人的な見解として、裁判員制度に反対だ。憲法31条の手続き保障の問題がある。裁判員制度の下ではこの手続き保障が完全に崩壊する。刑事事件であれば構成要件に該当する事実認定、プロの裁判官でも難しいことが一般市民にできるのか。量刑判断もさることながら、事実認定は簡単なようで簡単ではない。

男性:裁判員は、PTSDになる可能性がある。最高裁はそれを予想しているということだが、PTSDになった人たちが「最高裁の世話になるのはイヤだ」と言うことも考えられる。そういう人たちが「被害者の会」のような会を作った場合、そこで語ることは秘密の漏洩になるのか。それとも秘密結社のように(笑)、密かにやるしかないのか。現実性があるかどうかは別にして、聞きたい。

佐藤(満)さん:まだまだ、問題を話し尽くしていない。国民救援会では、裁判員制度の問題点をあぶり出しながら学習会などを重ねていきたいと考えている。

佐藤(欣)さん:裁判員裁判の理念について、国がどこまで説明しているのかと考えると、理念がよく分からない。陪審制の理念は、高山さんの言うように、あくまでも検察権力に対する国民の立場で対峙するというそれ以外の何者でもない。検察のやっていることをチェックするだけだ。ならば、陪審裁判ならば難しい事実認定はいらない。やったかやらないかではなく、検察の主張が正しいかどうかを判断するだけだ。しかし、今の裁判官はおおむね権力側に取り込まれ、検察主張の冷静な検証ができない。陪審裁判なら「だから市民参加が必要だ」ときっちり説明できる。ところが、裁判員裁判は理念のない制度なので説明ができない。

金澤さん:刑事裁判は権力がその人を罰して良いかどうかを判断する場であり、検察官の言っていることが正しいかどうかをチェックする場である。今はおもしろおかしく報道されることが多く、その結果、「こんなけしからん奴は有罪だ、死刑にしてしまえ」となる。だからこそ、憲法が規定する法定手続きが大事だということだ。ただ、憲法31条に違反するかどうかは解釈問題があり、現時点では答えを持っていない。PTSDは難しい問題である。公開裁判の場でのことはだれでもオープンにできるが、評議の場でのことについて、だれが何を言ったかを特定できるようなことを話すことは禁じられている。裁判だけでなく、一般的にもどこまでオープンにしてよいかの判断は難しい。質問にあったようなことは今後も危惧される問題だ。

川井さん:ドイツでは憲法で裁判官の裁判となっていながら参審制を導入していて、違憲ではないとなっている。裁判所法3条には「陪審制度を妨げない」と書いてあるが、日付は昭和22年5月3日である。陪審制度は憲法も想定しているということだ。旧陪審法は大正デモクラシーの時代にできたもので、普通選挙と抱き合わせだった。まさに民主主義と平和主義の象徴である。

高山:陪審制度が施行されたのは、1928年、3・15事件という共産党大弾圧事件があった年、山東出兵など日本が大陸侵略を進めた年だ。民主主義と平和主義どころの話ではない。そのことをまずはっきりさせておく。

 私も憲法31条違反だと思う。明確に言えることは日本国憲法が裁判員制度を規定していないということだ。陪審も規定していない。陪審は当時論議されたというが、大事なのは、論議したにもかかわらず憲法上規定しなかったということだ。陪審制も裁判員制度も裁判官の裁判の保障との関係で、非常に特殊なものだ。裁判官にとっても裁判を行う権利が侵害されるという憲法上の問題がある。全体として言えば、「憲法違反のデパート」と言われるほど、たくさんの憲法違反が指摘されている。

 秘密結社化するのではないかと言われた。アメリカでは、著名事件に参加した陪審員たちは、「わが陪審体験記」などの手記を世に出すことがある。出版待機期間を守らず科されるペナルティと印税収入を比較し、トクな方をとるなどという話さえある(笑)、とにかくそのくらいフリーである。それに比べて裁判員制度はなんと秘密、隠蔽、密行なのだろうか。ここに恐るべき裁判員制度の本質がある。

 弁護士の佐藤さんが80年代の「死刑台からの生還」を言われた。そのすべてに最高裁がかんでいる。言ってみれば、最高裁が「死刑でよし」と言ったのだ。その最高裁が「我が司法の正統性」などとどうして言えるか。それを正統だといって、それを前提とした裁判員制度を導入しようとしている。名張のブドウ酒事件だって布川事件だって、最高裁がかんでいる。最高裁が関わったとんでもない事件は山のようにある。その最高裁が裁判員制度を推進している。裁判員制度論の欺まんは、これを言うだけで終わりにしてもよいくらいだ。彼らが「ごめんなさい」と土下座しているところで、裁判員制度が始まろうとしているのではない。「自分たちが正しい」といって、「そこにお前たちが参加しろ」といって、「正当な理由がなく参加しなければ処罰する」といって始めようとしているところを直視しなければならない。

 5月21日に裁判員制度を導入させない闘いのまっただ中にまだいる。推進派の諸君から、「もう廃止要求ではなく、修正要求ではないか」と言われた小田中聰樹東北大学名誉教授が、これに返された言葉を最後にご紹介する。「それを言いたければ始まってから言えばよい。今はやめろと言うべきです。あなたにとってもその両者は矛盾しないはずです」。

司会:いつもどおり活発な議論となった。時間がなくて会場にまだ発言者が残っているが、申し訳ない。
いま、高山さんが言われた熱い想いを受け止めて終わりたい。

(了)

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