講演「裁判員制度を考える」
(09.1.25 群馬県女性会館)
あいさつ
ご紹介いただいた「不撓不屈の」高山俊吉です。これは冗談(笑)。同じ高山姓の高山昇先生は不撓不屈の弁護士ですが、私は中ぐらいのところで頑張っていますので、よろしくお願いいたします。
私は群馬県にご縁があります。42年前、この会館の隣にある駐車場の辺りに前橋地方検察庁があったころ、私は、当地で、お医者さんで言えばインターン、司法修習生をしていました。私の法律家としての出発地は前橋市です。当時、私は、群馬大橋を超えた石倉町のアパートに住んでおりました。「翠豊閣」と名前こそ立派でしたが、6畳一間のアパートでした。
今、歓迎の催しということで「夏の想い出」のフルート演奏をお聞かせいただきました。ありがとうございます。私の夏の思い出は2回の夏を過ごした石倉町と前橋市です。裁判員制度の問題で全国を70カ所以上回っておりますが、音楽で迎えていただいたのは初めてで、今日は大変感動しております。
70分の時間をいただきました。精一杯お話をさせていただきます。ただいま高山昇先生が、裁判員制度の問題点をきちっと指摘して下さいました。今日のタイトルは「裁判員制度を考える」ですが、「裁判員制度を批判的に考える」とか「裁判員制度を批判的に検証する」という意味になると思います。昇先生のお話のところどころを拾ってお話ししますので、最後にもう一度、昇先生がどうおっしゃったのかを思い出していただくと問題が正しく整理されることになる、こういう展開になります。
何のために実施するのか…裁判員制度の特徴
最初にお話しするのは、何のために裁判員制度を実施するのかということです。裁判員制度についていろいろ議論されておりますが、みなさんの疑問、私たちの疑問は、結局、「何のために実施するのか」に行き着きます。
一部で、こういう風に言われています。「市民が司法に参加するのは、国の主人公、主権者として望ましく好ましいことだ」。その言説は、多く「あの陪審制度と似たものだから」というイメージとともに話されている。陪審制度と言われると、多くの方は映画やテレビでご存じでしょう。しかし、ここには大きなまやかしがある。裁判員制度は陪審制度とはまったく違う。「似て非なるもの」どころか、似ても似つかぬものです。
裁判員制度の特徴を挙げます。覚えていただくとご家庭や職場やお友だちと話をするときに役立ちます。これだけ聞いて帰らないでくださいね(笑)。・20歳以上の人がプロの裁判官と一緒に行う。・重大な犯罪事件に限る。・被告人が争っているかいないかを問わない。・量刑の判断にもかかわる。・多数決で結論を出す。・裁判員就任は原則として断れない。・被告人は裁判員の参加を一切断れない。・7割は3日、9割は5日で判決になる。・複数の犯罪の嫌疑がある場合、事件ごとに別の裁判員グループが審理する。・裁判員は一審に参加するだけ。
陪審制との違い
少し補足します。陪審は素人だけでやります。プロと素人が一緒にやることはない。「怒れる12人の男」が有名ですね。今でも、ビデオやDVDなどで見られます。陪審制のもとでは、陪審員だけで評議して結論を出す。その結論に基づいて裁判官が判決を言い渡す構造になっています。
陪審は、被告人が無罪を主張したときしか開かれません。被告人が有罪を認めたら、プロの裁判官だけで審理する。O・J・シンプソン、マイケル・ジャクソン。どちらも被告人が無罪を主張したので、陪審裁判が開かれたのです。
陪審の世界では、有罪には陪審員の全員一致が必要です。ごく一部に多数決でもよい州がありますが、単純多数決(過半数)はない。しかし、裁判員制度では、多数決(過半数)で結論を出し、有罪なら量刑にもかかわる。そこでこういうことが起きる。自分は無罪を主張したけれど、多数決(5対4とか6対3とか)で敗れ、結論が有罪になってしまった場合、有罪と決まったところで今度は量刑の判断に入ります。「私は、無罪に手を挙げた」と言っても、裁判長から「いや、多数決で有罪と決まったのだから、量刑について意見を言いなさい」と言われる。無罪を主張した裁判員も有罪の立場に立って量刑の意見を言う義務がある。死刑の評決も多数決で行われますから、無罪を主張した裁判員も死刑判決を言い渡すメンバーの一人になるのです。
陪審員の辞退は、アメリカなどでは事実上、広範囲に認められています。陪審員は12人ですが、O・J・シンプソンの陪審裁判では、陪審員候補者とされた千人を超える市民が陪審員に就任しないで終わっています。また、陪審制では、被告人は陪審の裁判を断ることができます。陪審制度なら「自分はプロの裁判官に判断してもらいたい」と言える。しかし、裁判員制度の下ではそのようなことは言えない。
陪審制には、超短期に裁判を終えるというルールも思想もない。O・J・シンプソンの事件は10カ月かかり、その間、陪審員はホテルへ缶詰になった。イラクに派兵されれば、1年も2年も祖国に帰れない国ですから、ホテルから家に帰れないくらいなら嬉しい話なのかもしれないが、とにかく10カ月間のホテル缶詰。週末は家族をホテルに呼んでもいいことにしてほしいという声が陪審員から出て、審理の後半はそれが認められたと聞きます。マイケル・ジャクソンの事件でも3カ月近くかかりました。
日本の裁判所は人権への配慮が厚く、みなさんを早く家に帰そうということで、手続きを3日から5日で終わらせることにしたのでしょうか? それは違う。その話は後でしましょう。
裁判員制度は陪審制とは似ても似つかぬという話、おわかりいただけたでしょうか。陪審制というのは、罪に問われた被告人を守る裁判方式です。アメリカの憲法には「被告人は陪審の権利を持つ」と書かれています。被告人は、12人の陪審員を楯として自分を守れる。弁護人は、ディフェンダーとして被告人を弁護するけれども、それ以前に陪審員が被告人を守る。だからまた、被告人はその権利を自ら敢えて使わず、「私は、陪審はいらない」と言ってもよい。そう言う権利もある。権利は、使うか使わないかはその人の自由です。自由にならないもの、行使しない自由のないものを権利とは言いません。義務と言います。
そして、また、陪審員は被告人のガードであるがゆえに、有罪か無罪かの判断しかしないのです。もし、有罪と考えられたら、「私の任務は終わり」になります。検察官の主張する有罪の嫌疑は、12人の彼ら、彼女らを説得する力を持っていた。被告人は確実に有罪だろう。12人みんながそう納得した。そうすると、後は「Good-Luck」と言うかどうか、それはわかからないけれど(笑)、任務をそこで終えて消えていく。量刑をどうするかは裁判官の仕事で、陪審員が判断することじゃない。それは「その判断を本来すべき人がしろ」ということです。
「主権者の権利を尊重した裁判員制度」だとか、「裁判員になるのは素晴らしいことだ」などという言説のおかしさは、これでおわかりいただけたと思います。市民が「権力は間違ったことをするかもしれない。俺たちはそれをチェックするぞ」というのが陪審制です。市民は、権力に対して、おかしなこと、危険なことをすると不信感を持っている。だから、裁判所へも出かけていき「ちょっと待て」と言うこともする。司法の場に市民が出かけて行って、何かをしゃべったり決めたりすれば「市民参加」になるのじゃない。
導入に対する当局の説明
このウソについて別の面からお話しします。当局が、裁判員制度の必要性について何と言っているかという観点からの観察です。裁判員法を作る作業にかかわった裁判官に、今、東京地裁の所長をしている池田修という人がいます。昇先生が紹介された裁判員制度の準備グループ「裁判員制度・刑事検討会」の委員の1人でした。この人は、成立した裁判員法の解説書に次のようなことを書いています。
「裁判員制度は、現在の刑事裁判が基本的にきちんと機能しているという評価を前提としている」「職業裁判官による刑事裁判を否定的に評価する意見に立つ制度ではない」「陪審制に進む前段階ととらえることはできない」「裁判の正統性に対する国民の信頼を高めることを目的とする」。
正統性というのは、正しい伝統を持っているとか、歴史があるとか、由緒正しいとかそういう意味合いの言葉です。ですから、「日本の裁判は伝統と歴史を持った正しい裁判制度であるということを勉強してもらうために裁判員制度があるのだ」という訳です。
女優さんが新聞紙面に登場した裁判員制度のカラー全面広告を見たことがあるでしょうか。長谷川京子さん、仲間由紀恵さん、上戸彩さんというような人たちが裁判員制度推進の広告に出ていましたね。最高裁、法務省、日弁連の連名広告です。仲間さんが出ていた広告に、次のような言葉があります。「判決や刑罰決定までの過程を…」。「過程」という言葉は難し過ぎますね。「家庭」はありますけどね。私たちの日常生活の中でこんな言葉は使わない。彼らのお上センスがこういう所に頭を出す。話を戻しましょう。「判決や刑罰決定までの過程を体験・理解し、犯罪がどのように起こるのかを考えるきっかけを作ることで、安心して暮らせる社会に何が必要かを自分のこととして考える」。安心して暮らせる社会に何が必要か、自分の問題として考えてもらいたいという訳です。そして、最後に、「昨日までの自分とは違う自分になる」とある。
「昨日までの自分とは違う自分になる」。どうやらみなさんの人格を改造したいらしい。これまで、あなたは世の中のことなど考えもせず、ひたすら自分の小さな幸せのことしか考えてこなかっただろう。それは自堕落な生活というものだ。裁判員になることでそれは変わる。この世の中が秩序が維持され、治安が守られた社会であるために、みなさんには、自身の責任を自覚してもらう。これであなたは真っ当な人生を歩むことになる。「昨日までの自分とは違う自分になる」というのは、つまりそういう意味でしょう。
全国各地の裁判所、最近では学校や市役所などにまで貼ってある未成年向けのポスターがあります。野球少年やセーラー服の女学生をバックにしてメッセージが書かれてある。野球少年のポスターの言葉は、「僕が20歳になるころ、裁判が変わる。いろんな犯罪を自分たちの問題だって思えるかもしれない。自分の経験と知識を裁判にいかす」。どういう経験でしょうか、犯罪を考えるのに役立つ自分の過去の経験と知識とは。「そしてこの社会が少しでも良くなることを願う」。一人ひとりがこの社会の治安を守る自覚を持ってほしいというのです。
最高検察庁の総務部長だった人の言葉があります。「殺人事件の被告人や被害者と向き合い、被告人をどう処罰するのかを考える」。さすがは検察官です、被告人は有罪と決まっているらしい。先に進みましょう。「被告人をどう処罰するかを考える。今までは新聞やテレビで触れるだけだった国民が、直接、事件に触れ、判断をすることで、子どものしつけや教育にもいきてくるのではないか」。
「そんなことをすると懲役12年よ」なんて言うお母さんが良いお母さん、「いやいや、あいつにも情状酌量の余地がある」なんて切り返してくれるお父さんも良いお父さん(笑)。そういう家庭の雰囲気がこれで作れるというのですね。そういう思想で、秩序や教育やしつけを考える社会が、これからの日本には必要だと検察の要人だった人が言っている。
文科省が出した副読本「心のノート」には、「社会の役に立つ人間になろう」とか「社会のためになるには自分から変わっていこう」というような言葉が出てきます。なんと似通った世界だろうかと思います。教育基本法、前の前の前、いや2つ前か。安倍という首相がいた。この人が教育基本法の改正論議の中で、「国のために役立つ人間を作るのが教育基本法改正の目的だ」と言いました。参議院本会議の答弁でしたね。「国のために役立つ人間」。そういう論議も先ほどからの話に底のところで確実につながっていると私は思うのです。
これが、裁判員制度に関する当局の解説です。私はそう説明をして全国を回っていますが、しかし私の説明を聞いてくれた方はそう多くはない。回ったと言っても70カ所程度、せいぜいで1万人でしょう。市民の80パーセントが「反対だ」「消極だ」というのは、当局のわからない説明やあやしげな説明にひそんむうさんくささに、それこそ圧倒的な市民のみなさんがご自身の分析力で気付きはじめているということです。私は、そのうさんくささの中身を解説しているだけです。
もう一昨々年になりますが、最高裁が市民を対象にアンケートを取りました。「あなたは何日なら裁判所に出かけて行けるか」という質問です。「3日以内だったら行ける」「4~5日なら行ける」「6日以上でも行ける」…。そうしたら、「3日以内なら行ける」という人が一番多かった。「一日でも行けない」より多かった。で、裁判員裁判はできるだけ3日でやろうということになった。でも、そもそも「やりたくない」と言っている人に、「何日ならいいか」と聞くのはおかしいでしょう。夫に殴られるのは「3発以内なら我慢する」「4~5発までは我慢する」「6発以上でも耐える」のどれを選ぶかと聞いたら、「3発以内」が一番多かったから、世の中の妻たちは「3発以内なら我慢する」と言っていると発表するようなもんです(笑)。ひどい話です。
国民に迷惑をかけないために、3日から5日で終える。国民に迷惑をかけたくないのだったら、こんな制度は始めなければいい。絶対にやると言い、今度は負担をかけないという理屈で、超短期に判決を出してしまうシステムを作る。何重にも欺瞞、何重にも人権無視。私は、この話をするだけではらわたが煮えくりかえります。
市民の応答は
最高裁や法務省が日弁連も巻き込んで出したリーフレットがあります。タイトルは、「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」。それはわかりやすく言うとどういうことか。ここには何一つ中身が書かれていない。「正統性がある」司法の現場にみんなが「自分の視点や感覚や言葉を使って参加する」。それは何のためだ。これでは「わからない」が多発するのはあまりにも当然です。
ある女性月刊誌の記者が取材に来て、「なぜ裁判員制度を実施するのか。聞きたいのはそれだけだ」と言われた。記者は、法務省に行き、検事にその質問をしたそうです。検事は、「司法制度改革審議会がそういう結論を出したからだ」と答えた。記者が「司法制度改革審議会は、どうしてそういう結論を出したのか」と聞いたら、その責任者は「委員じゃなかったからわからない」と言った。「それでは、説明になっていない」と迫ったら、「なぜ、そんなに過去のことにこだわるのか」と言われた(笑)。
私は、彼女に逆取材をしました。「あなたは法務省の取材でどういう感想を持ちましたか」と。「その検事は、本当は裁判員制度に反対なんだろうと思いました」というのが彼女の応答でした(笑)。後日、私への取材記事が掲載された月刊誌が送られてきたのですが、そのタイトルは「裁判員制度わからない」でした。わからない、わからせない、煙幕を張っている。でも、所々で本音が出てくる。「今の裁判には正統性がある」だの、「しつけに活きてくる」だの、「裁判員を経験して、あなたは変われ」だのと。そういう言葉の中からやっぱり見えてくるものがある。
現代の赤紙…強まる反発
昨年12月、最高裁は、29万5千人の市民に、「裁判員候補者名簿に登録をした」という通知を送りました。これに対してものすごい反発が起きた。その反発は、ついに「私はイヤだ」と実名を公表して名乗り出る人まで生んだ。
裁判員法には「何人も裁判員や裁判員候補者を特定するに足りる情報を公にしてはならない」と書かれてある。だれが裁判員か、裁判員候補者か、そのことは自分が知っていても他人に知らせてはいけないと最高裁は考えています。みなさんもマスコミもその義務を負っている。そして、法律には書かれてないのですが、「何人も」は「呼び出された本人を含む」というのが最高裁の解釈なんですね。自分が呼び出されたことも他人に言っちゃいけない。「自分は何も怖れることはないから、候補者としての思いを投書してみたい」なんていうのは認められない。ブログに書くのなどとんでもない。
「あの人、裁判員になったようだよ」という噂話を広げると、誰かからその人に危害が加えられるきっかけになってしまうかもしれないからやめてほしいというのには、あるいは理屈があるかも知れない。イヤ、それだっておかしいという声もある。ですが、自分自身が別にかまわないと思うのは、不都合も不利益も覚悟の上の話でしょう。テレビキャスターの小宮悦子さんは、「呼び出されたことをテレビで話しちゃいけないんですか」とおっしゃいました。もちろん、いけない。驚いておられました。、「本人自身も秘密にしろ」という規制の目的を考えましょう。
さて、話は戻ります。その禁が破られた。掟破りで、昨年12月20日、自分が候補者になったことをマスコミに公表した。「私は選ばれたけど、裁判員になるのはイヤだ」。これには、最高裁から「特定可能報道」を禁じられているテレビや新聞の方がびびってしまった。情けない話です。候補者の顔や名前を書いたプレートにぼかしを入れたり、音声を変えたりするなどマスコミの方が緊張しきって、あわてまくった。
公表者のみなさんが異口同音におっしゃった言葉は「これは赤紙だ」「徴兵制のようだ」でした。突然、最高裁判所から「候補者にしたぞ」という書面が送られてくる。この中にもいらっしゃるでしょうか。350人に1人の割合なのでおられてもおかしくない。徴兵制は呼び出されて、人を殺しに戦場に行く。裁判員は呼び出されて、人を殺したり一生拘束したりするために裁判所に行く。同じようなものじゃないかというのです。
名乗り出られたお一人の言葉をご紹介します。
「日本の裁判はほとんどが有罪だそうだから、裁判所に行けば、おそらく被告人の命を奪うとか、一生監獄に閉じこめておくとかの判決を出すことになろう。なんとかなるというような軽い気持ちで参加することはとてもできない。
これで、日本の裁判が良くなるとも思わない。NHKのテレビ放送も見たが、素人の意見が裁判官の判断に反映される余地はないと感じた。しかも罰則の強制で秘密を厳守せよという。情報公開とか、裁判の透明化などとは正反対の方向ではないか。
市民感覚を反映させたいなら、裁判官がそういう視点を持つよう自分を磨くべきだろう。私たちは、納税者としてそういう権利があると思う。
納税といえば、そもそも税金の無駄遣いだ。もし、お金があるならば、本当に生活に苦しんでいる人のために、生活保護とか、仕事の保障とか、医療制度とかに使ったらよい。そうすれば、事件を起こす人だって1人でも減るだろう。
私自身、老後の生活は、心静かに生きたい。イヤな気持ちを抱えて、あの世に逝きたくない。妻からは(実名を公表して記者会見に出ることを)止められたが、だれかがはっきり言わなければと思ってここに来た。
通知票を持っているだけで、気分が暗くなり落ち込む。今年は来なかった方も、来年は来るかもしれない。少し考えたら、だれでも私と同じ結論になると思う。
裁判員制度は無用だ」。
崩れ落ちる推進派
高山昇先生のお話しにあったけれども、私は昨年2月に行われた日弁連会長選挙に立候補しました。裁判員制度推進派と私の一騎打ちの勝負です。結果は、私は勝利しなかったのだけれど、得票率は43%になりました。57対43という比率で敗れたということです。推進派は政府ご推薦の後ろ盾候補、私は草の根の弁護士の代表。その対決でこの数字です。日弁連は実質会論二分、会論真二つといってよい。
しかも真二つというのは、賛成、反対の真二つじゃない。「もう法律ができてるんだから。やりながら直していくしかないんじゃないか」という57%と、「法律ができようとも準備が進んでいようとも絶対反対」という43%の対決なのです。「なんて言ったって素晴らしい裁判員制度」などと言ってるのは、日本の弁護士の中に10人もいるでしょうか。「弁護士の圧倒的多数は反対か少なくとも消極」と断言していい。
日弁連会長選挙のすぐ後に、新潟県弁護士会が延期を決議した。そうしたら、5月に栃木県弁護士会が「実施するな」と。そして、つい数日前、千葉県弁護士会がやはり延期の決議。もう、日弁連はガタガタです、はっきり言って。
昨年7月、福田内閣、とうにお忘れになられた福田内閣ですが(笑)、首相周辺はひどく心配した。裁判員制度問題は第2の後期高齢者医療問題化するんじゃないかと。後期高齢者医療制度は、75歳以上は年金から保険料を天引きし、とりわけ低所得者を中心に負担を大きくするという制度です。「70歳までは裁判所にちゃんと来い、75歳になったら早く死ね」。こういうような構造だと日本中から非難の声が上がることを心配した。それが第2の後期高齢者医療問題化の危惧でした。福田首相は、裁判員制度その他すべての恐怖に負けて政権を投げ出したのはご承知のとおり。
べらぼうに税金を使い、女優さんを押し立て、映画やポスターやなにやらかにやらと、宣伝を尽くしたけれど、知られれば知られるほどイヤだという人が増える。最高裁の調査では、裁判員をやっても良いという人は、昨年春の調査でたった17%。イヤだという人が82%。宣伝に力を入れるほど嫌われている。「なんとかしろ」と現場を叱咤した首相周辺。しかし、何ともならない。そんなこと言っているうちに自分の方が倒れてしまった。
福田首相が「きちんとしろ」と言った途端、共産党と社民党が公式に「見直し」「延期」の主張を発表した。8月初めです。そうしたら、民主党の鳩山幹事長や小沢代表が「個人的な意見だけれども、やはり見直さなければいけない」と言い出した。12月、国民新党と社民党が「延期の方向で野党を結集しよう」と合意した。制度推進の旗を振っている連合の羽交い締めで身動きがとれない民主党ですが、それでもこのままでは収まらないでしょう。
自民党の中にも反対論がたくさんあります。一体、どこの政党が推進していたんだと言いたくなりますが、「全党一致」で決まったんですね。衆議院と参議院のねじれ現象がよく言われるけれど、これは国会と国民の途方もないねじれ現象です。国会は全党一致、でも国民は80%余りが消極。私は、偏狭な民族主義思想の持ち主ではないつもりですが、今度という今度は、「ちょっと待て」と言っているこの国の国民をあらためて信頼しますね。「全党一致」となると、「仕方ないか」になると思いそうですが、そう思っていない。みなさん、そう思ってないでしょ。弁護士も、いや裁判官や検察官でさえそうなんです。みんなが政党に対して不信感を持っている。どうしてそういう無責任な態度をとるのか、とれるのかと、こういうことです。
最高裁も法務省も「有識者懇談会」を発足させるという。制度が始まる前から制度の見直しを検討する有識者懇談会を始める。今から変更案を議論するって、おかしいですね。今までは、無識者で方針を決めてきたから(笑)、これから有識者の懇談会を始めて、考え直そうということなのか。それならばこれまでの無識を詫びるべきですね。いやがる国民を前に、みなさんがイヤがる気持ちはわかりますというパフォーマンスなんですね、これは。
でも、こういう動きを見ると、最近の論議で思い起こすことがあるでしょう。消費税値上げの話ですよ。税制関連法案の附則に3年以内の消費税値上げを入れるかどうかについて、それはその時の景気回復の状態で決めるんだと。すべては景気の回復状況によるのか。それとも3年以内という限度はなんでも厳守するのか。大議論になり、結論が玉虫色になったとかならなかったとか報道があったでしょう、あれですよ。
裁判員法は、5年前の2004年には、その程度の議論もやっていない。決めたのは、5年後に実施するということと国民の理解・支持を得なければならないということ。この二つのことを裁判員法の附則に併記した。そうすると、5年後までに理解・支持が得られなければ、5年の期限が吹っ飛ぶのか、理解・支持が得られなくても5年後には実施することになるのか、どちらなのかあまりはっきりしない書きぶりになっている。
さすがに消費税では、3年以内に景気が回復しなかったら実施しないのか、3年経ったら絶対に実施するのかが激しい議論になり、結局、結論は2段階方式になった。3年以内に実施時期を法制化すると決めて、値上げは3年後以降。これで「3年後」は消えたんですね。一方、裁判員法には5年後と書いてある。5年後は今年5月21日です。けれども、国民の理解・支持を得なければならないということも書かれてあり、そのルールも厳然と生きている。
実施までの間に国民の理解と支持を得なければなんて書いてある法律なんて、ほとんど前代未聞ですよ。だって、国民の代表が集まった国会で「こういう制度にする」と決めた訳でしょう。「国会議員の理解と支持」が「国民の理解と支持」のはずですよ。実施するまでに国民の理解と支持を得なければいけないなんて決めるのは、法律成立時に国民の理解も支持も得られていないことを知りながら、国会議員が勝手に決めてしまったことを「自白」するもの、実に変な法律だということです。5年経った今、82%以上が消極だとすれば、いかに5年後と書いてあってもやっぱりダメなものはダメだという議論しかない。
凄絶を極める裁判の実相…
裁判員裁判の実相、実際がどういうものかという話をします。昨年5月、最高裁がある方針を提起しました。先ほど、昇先生が少しお話しになられましたが、裁判員の「心のケアをする」というのです。苦しんでいる人、心が傷ついた元裁判員に対し、24時間体制で心のケアの電話相談に応じるという。「24時間体制」がミソです。最高裁は、少なからぬ市民が、夜、眠れなくなると予測している。「公務員の勤務時間内に限らせてくれ」なんて言わない。「夜中でも休みの日でもやります」です。
しかし、みなさん。「大ケガをするかもしれないが、救急車の用意をしたので安心して崖から飛び降りてくれ」と言われ、「わかった。それなら安心して飛び降りてみよう」と思いますか。「救急車の用意をしなければならないような制度にどうして私たちを巻き込むのか」という声になるのがオチじゃないのか。「才人才に溺れる」という言葉があります。ご機嫌を取ろうと気の利いたことを考えてみが、これで国民が支持することには断じてならんのですよ。
ならない証拠が、またまた現れた。新聞やテレビでも報道された。東京・江東区のマンションで、2つ隣の部屋に住んでいた女性を自室に引っ張り込んで殺し、バラバラにしてトイレなどから流してしまったとされる凄惨な事件です。
この事件の裁判が1月13日に始まって、明後日1月26日の6日目の公判でもう結審するんです。2月上、中旬ころには判決になると言われる。殺人と死体損壊の事件が1カ月で判決です。この事件の法廷で、検察官は、公訴事実を認めている被告人に、つまり殺人も死体損壊も自白している被告人に、被害者の遺体をどのように解体したかをまことに詳細、克明、執拗に尋問したんです。
法廷に大きな画像を出し、写真やイラストを示し、足の断面を赤黒く塗ったマネキンを使ったりした。遺体を切り刻み、頭蓋を切り、脳みそを取り出す経過などを説明させた。傍聴席で聞いていたご遺族が号泣して退廷した。他の人も倒れ、退廷した。
記者たちもこの法廷の模様を目の当たりにしたのだけれど、現実の裁判があまりにも凄まじく、とても記事にできなかった。テレビの放送可能な限度を超えていた。私は、その場面を取材した記者から、直接、話を聞きましたけれど、その様子は実に凄絶でした。
問題は2つあり、整理が必要です。1つは、現在の判例では、被害者が1人だとなかなか死刑にはなりません。そこで検察官としては、「被害者は1人でも死刑にすべき悪らつな犯人だ」と強調したい。その検察官の法廷戦略の当否の問題です。もう1つは、刑事裁判というのはもともとリアルに真相を追求するものであり、話を曖昧にしないのは当然だという刑事裁判の本質に関わる問題です。
見たくないと思っても、プロの裁判官、検察官、弁護人は、職業上の責任があるから眼光紙背に徹するほど見ます。今日は、この会場に弁護士さんが何人も参加していらっしゃいますが、皆さんはそういう凄絶な場面や写真などを当然のようにご覧になっています。それを避けたら法律家として責任は果たせません。でも、一人の生身の人間としては耐えられるものではない。職業的責任がからくもその行動を支えているのです。それだってギリギリです。私が修習生の時、当地で一緒に修習していた男性の仲間が、遺体解剖の場面で失神、卒倒してしまったことがあります。それがリアルな実態です。
東京・江東区のマンションバラバラ殺人事件には、検察官の特殊な意図が伏在していたけれども、一般的に言っても刑事裁判においては、とりわけ生命に関わる刑事事件の審理においては、その強烈な衝撃は十分に覚悟しなければなりません。そこに参画する決意なしに裁判に関与することはできない。だから最高裁は「心のケア」を言うのです。
さて、こういう裁判に、みなさんは勇躍関わっていけますか。
裁判員裁判で多く扱われる事件を、今、ボードに書いていただきました。
「強盗致傷」「殺人」「現住建造物等放火」「強姦致傷」「傷害致死」「強制わいせつ致死傷」「強盗強姦」。
この7つで裁判員対象事件の85%におよびます。裁判員が関与する事件というのはつまりこういう事件です。読むだけでもすさまじさが想像できるでしょう。万引きとか痴漢とか、そういう事件じゃない。最高裁の宣伝チラシやリーフレットをご覧下さい。「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」。女優さんの嬉しそうな顔、この表情と現実の事件との途方もない乖離。
年間10万件の公判事件のうちの「極悪非道」筆頭格の3千件に関わるのです。10万件のうちの3千件と言えば、100件のうち3件、僅か3%です。嬉しそうな顔でやれるか。女優さんに恨みはないが、笑い顔の若い女優さんを見るとつくづく私は「だましの手口」を感じます。
市民に裁判への参加を呼びかけることがもしあるとすれば、その言い方は次のようになるべきでしょう。「楽しくも嬉しくもありません。でも、国が間違った判断を下し、そのために無実の罪で被告人を死刑台に送ったり、一生牢獄につなげたりすることのないよう、ぜひ力を貸して下さい。大変だけれども裁判所に来て一苦労してほしいのです」と。これ以外の話はウソです。
時代と結びつけて考える
時代は以前からおかしいが、昨年9月のリーマン・ブラザーズの破綻以来、世界は恐慌状態に突入している。トヨタが2兆円の収益から一挙に70%も落ちた。非正規雇用を削り、今度は正規雇用も潰されに入った。ワーク・シェアリングは賃下げのこと、いわば部分的解雇。そういう危険な時代に突入しました。「生きさせろ」の声がこの国を今、覆っています。
この危機を突破する最善・最良の方策は戦争です。ソマリア沖に「海賊」が出る。ここに日本の自衛隊が行くという議論が具体化している。ソマリアってどこにあるのかわからないくらい、遠い国、遠い海です。一方、「海賊」の行動は刑事犯罪です。人は殺されていないようですから、裁判員事件の対象にもならない「普通の刑事事件」になります。日本の軍隊が地の果てまでも警察活動のために出かけて行く。刑事犯罪対策に軍隊が武器を持って出しゃばっていく。どうしてこだわるのか。憲法9条をひっくり返す機会、軍隊が戦闘活動に乗り出す機会を作り出したい。軍隊が武器を持って実際に闘えるようにしようという魂胆がそこにあります。そこには、「戦争こそ危機突破の妙策」という思いがしっかり横たわっている。
「自分たちの利益を守るためには、軍隊がほしい」というのは日本経済団体連合会の要人がすでに堂々と言っていることです。中国の工場で低賃金や首切りにあえぐ民衆が暴動を起こす。「暴動から工場を守るのは中国の警察ではなく、日本の軍隊だ」という訳です。戦争になっても、軍隊を派遣してでも、日本の経済を守らなければいけならない。この国は、今そういう状況に直面している。
ある詩を紹介したい。「ガダルカナル戦詩集」で知られた吉田嘉七という詩人が書いた「ぼくら子どもは」という短い詩です。
「ぼくら子どもは」
銀行が倒産し
市電はストでよく止まった
工場地帯では赤旗が立っていた
ルンペンが塵芥箱を漁り
公園のベンチで一日寝ている人もふえた
月給が下がったという
物が売れないのだという
農村は冷害で作物がとれないのだという
弁当を持って来られない友達もいた
大人たちの暗い表情が
暗い街に溢れた
満州で戦争がはじまったのは
僕が中学1年の時だ
物がぼつぼつと上がり出し
景気が良くなって来たらしい
「戦争が始まって良かったね」
大人達のつぶやきは
子どもの僕らの耳にも入った
やがて戦争で殺されるぼくらの
これは、昨年末の日比谷公園の状況を描いた詩ではない。1931年、「満州事変」突入時の町の悲惨な情景を描いたものです。世界恐慌の下で飢饉に襲われ、農村が極限まで疲弊し、一家心中や家族離散が頻繁に起きた。労働者と農民の困窮が極まった結論が戦争だった。戦争は確実に景気を良くする。それは、少しずらせば、今の時代に近い情景です。どんどん景気が悪くなる。底なし、底抜けに悪くなる。その状態は、昨日の新聞にも今日の新聞にも出ている。この状況が、改憲を指向する勢力を蠢動させている。
裁判員制度の背景にこの時代の危機がある。危機の時代にはとんでもない方向に国民を向かわせる動きが登場する。しかし、今この国には、戦争を禁じた憲法がある。それを取り除きたい。憲法9条を変えたい。交戦権を否定した憲法9条2項を変えたい。そして、そのもくろみを実現するためには、公の秩序を守り、お国を守るのは自分たちだと思う国民を増やす必要がある。
裁判員制度は、危険な時代の所産、生産物です。この時代の危険な様相は、改憲の動向に鋭く現れていますが、それをもっと具体的に言えば、裁判員制度です。憲法を考える。9条を考える。2項を考える。それは最も大事なことですが、「その時が来たら改憲阻止だ」ではない。裁判員制度は改憲そのものだという視点を私たちがしっかり持つことが、改憲を阻止する決定的な力になると考えます。
広がる反対運動
裁判員制度に反対する運動がすごい勢いで進んでいます。みなさんのお手元のリーフにある「ストップ!裁判員制度」のうねりは、北海道から沖縄まで全国津々浦々で進んでいます。たいまつの火をちょっとあてれば、枯れ草に燃え移るように全国に運動が広がっていく。
その力があるから、全党一致で進めたはずの裁判員制度が崩壊の危機に直面しているのです。今日、ここに集まっているみなさんの周囲の人たちはおそらくその大半が裁判員制度に反対のはずです。私は、全国に「裁判員制度を止めさせよう」の声が広がっていることを知っています。こういうときに、年寄りは「燎原の火のように」という言葉を使いますが、本当に燎原の火のように広がっているのです。
ぜひ、みなさんもそこに連なって下さい。そして、ご家族、職場、学校、地域から声をあげて下さい。お手元に配られている裁判員制度反対の請願署名をみんなで集めましょう。そして、反対の賛同人に私もなると声をあげて下さい。
市民が司法に参加することに私は賛成です。ただし、その「市民の司法参加」は、さっきお話しした意味においてです。「市民の人権を侵害しないように、ちょっと待て」と言うのが市民の司法参加だということは、つまり裁判員制度に反対する行動が最高の司法参加だということです。そして、この闘いを成功させたときには、この国の司法には正統性があるなどという議論が嘘っぱちであることを天下に暴露するだけでなく、そのでたらめを正し、基本的人権と真の正義をこの国の司法に実現させる歴史的な闘いが始まる。私たちは、そこに必ず新たな地平と展望を見出すでしょう。
4月21日午後6時には、東京・日比谷の野外音楽堂に、5千の市民が集まります。北海道から、沖縄から、全国からです。群馬県は庭先の近さ。群馬のみなさんには、何としても日比谷野外音楽堂に来ていただきたいのです。昨年6月の日比谷公会堂での1500人集会には、長野県の皆さんがバスを仕立ててお見えになりました。9時に集会が終わって、長野へバスで帰られましたが、夜中に長野に着いて、それから県内各地にどうやって帰れたのだろうと心配しましたが、すばらしい仲間たちです。
みんな、一生懸命です。長野でも、栃木でも、茨城も、埼玉も、神奈川も。北海道、仙台、新潟、静岡、大阪、広島、山口、福岡を始め九州各地…。みな立ち上がっている。ぜひとも、群馬のみなさんも決起して下さい。バスを何台も仕立てて、日比谷野外音楽堂に詰めていただきたい。4月21日の大結集の1カ月後には、裁判員制度粉砕の日を迎えようではありませんか。私たちの努力は必ず実を結ぶ。必ずそうなると私は宣言します(拍手)。
最後に、某全国紙の社説を紹介します。タイトルは「市民の参加意識どう高める」。妙にフラットですね、「高めよう」と言い切らない。ただ「どう高める」です。「うまく機能するのか、依然として不安はぬぐえない。市民はいまだに後ろ向き。最高裁の調査では、参加してもよいが16%。嫌がったり消極的だったりする人が多数では審理の質への疑念も生じる」。ダメ、ダメ、ダメという話ばかり続いています。これが昨年4月、実施1年前の「来年5月に実施できるか」という新聞社説です。マスコミもガタガタ、最高裁もガタガタ、どこもかしこもガタガタ。順風を帆に受けて進んでいるのは、裁判員制度反対運動だけです。
みなさん。バスに乗り遅れないでください(笑)。みんなの力で裁判員制度を粉砕しましょう。そのために、私の法律家としてのふるさとの前橋から、大きな力を出して下さい。発進して下さい。そのことをお願いして、私の講演を終わらせていただきます。
ご清聴ありがとうございました。(拍手)
【司会】 質疑応答を考えていたのですが、もう少し高山先生のお話を聞く時間としたいので、高山先生あと5分お願いいたします。
【アンコールに応えて】
ありがとうございます。私、いつも話を用意しています(笑)。嬉しいです。今日は、音楽で歓迎していただきましたので、音楽会風に私のアンコール話をさせていただきます。
私の講演の前に上映され、皆さんがご覧になったDVDの話をさせてください。DVDに出られていたのは、玄侑宗久さんという臨済宗のお坊さんで、桜の名所で有名な福島県の三春の福聚院というお寺の住職さんです。5年ほど前になりますか、「中陰の花」という作品で芥川賞を受賞された方ですね。玄侑さんは、今、発売中の『文藝春秋』の2月号に、裁判員制度を批判する文章を書かれています。時々ぞっとしない記事が出てくる雑誌ですが、玄侑さんのエッセイは「大いにぞっと」します。ぜひ、お読み下さい。
私たちは、昨年11月22日に東京・三宅坂で市民集会を開き、その後、銀座まで6キロという長いデモをやりました。集会の場所は、最高裁の真ん前。最高裁の前に社会文化会館という建物があります。ここには、昨年、裁判員制度の実施延期方針を出した社民党の本部があります。社民党が方針を再変更しないようにというのは冗談ですが(笑)、その会館をお借りし、裁判員制度絶対反対のデモ前大集会を開いたのです。そこから銀座までのデモです。そのデモの先頭に掲げた横断幕が今日、ここにきているのです。今日のデモにもこれを使うことになっています(拍手)。
見て下さい。この横断幕、なかなか素敵でしょう。自分で満足していてもしょうがないですけど、迫力がある。メディアのみなさんは、撮影するとなるとこの横断幕をバーッと撮ります。みなさんにはこの辺り(横断幕の後ろ)に並んでもらいたいですね。メディアのみなさんが撮ろうとすると、みなさんが写る。そういう構図と言うか仕組みですね。これ、大事なポイントです(笑)。
11・22集会にビデオレターという形で参加していただいたのが、先ほど上映されたDVDなのです。玄侑さんは「人を裁かない心は、日本人の最後の美徳だ」とおっしゃる。人は人を裁かない。仮に裁くとしても基準は一つではない。悪人はお上に悪人と言われても庶民には義賊だったりする。そういう構造を持たない社会は危険だと強調されました。
その考え方は違うと言っているのが最高裁です。好ましいものの考え方は最高裁や法務省が決める。その考え方でこの世の中を仕切らせたい、そこに統一したい。裁判員制度を実施するという方針は、この時代が危ういことを踏まえて出てきた方針です。しかし、そのような思惑を拒絶する人がこの間一気に増えた。「危うい時代こそ正しい筋道を追求したい」と考え、集まり、発言し、行動する人々が増えている。
玄侑さんは、それがこの時代を生きる国民の本当の姿勢だとおっしゃる。浄土真宗やキリスト者や様々な方々も立ち上がっています。極楽浄土や天国への道を指し示す宗教者は、人を殺す綱を引っ張ることはもちろんのこと、人にそれを指示することも到底耐えられません。それこそ「人を殺せと教えしや」です。それは宗教者でなくても同じです。みんなの声を1つにしましょう。
以上、アンコールにお応えし、玄侑さんと今日の横断幕のご紹介を重ねて申し上げました。ありがとうございました。(拍手)
(了)
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