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講演「交通安全を自分たちの生活の中から考える」

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講演「交通安全を自分たちの生活の中から考える」(1)

(08.12.15 埼玉県のある高校)

1 はじめに

みなさん、おはようございます。弁護士の高山と申します。10時半ころまで時間をいただきました。若いみなさんとお話ができることを楽しみにしてまいりました。納得いく話になるかどうか。それは1時間半後にみなさんの心の中に何が残ったかで決まることでしょう。頑張って話しますので、よろしくお願いいたします。

弁護士を40年やっています。今、校長先生からお話いただいたように、交通事故や道路交通法に関する事件などの仕事のほかに、全国の高等学校にお邪魔をして、交通安全についてお話をしています。自動車教習所の中で高校生と一緒に実技を見ながら勉強したりすることもあります。

交通事故は日常的に起こっています。新聞記事にもなるので、みなさんは日頃見慣れているでしょう。警察署の前などには、「昨日の事故は何件」とか、「死亡事故は何件」とか、掲示されています。何となく慣らされていく怖さがあります。慣れてはいけないのが交通事故です。

みなさんのお宅には車があるでしょう。統計上、現在では一家に何台もあることになっています。私の若い頃には車はそんなに多くはなかった。私が皆さんくらいの年の頃には現在の30分の1くらいしかありませんでした。30分の1というのは、今、道路に立って見たときに、30台先にある車が私の若いころの車の風景ということになります。それは例え話ですが、車の台数が30倍に増えたということは、わかりやすく言えばそういうことです。

大げさに言えば、車の中にみなさんの生活がある。実際、車がなくなると経済は破綻する。阪神大震災の時には道路が寸断されて車が動かなくなり、関西圏の経済は一気にパニックに陥りました。ドア・ツー・ドアと言いますが、ドアで車に荷物を運んでドアで荷物を下ろす。列車で物を輸送している頃は、駅から倉庫まで荷物を運ぶところで初めて車が登場していました。今はドアからドアまで直接車で運ぶ。現代社会は、車とは切っても切り離せない関係になりました。

車には、楽しみのツールという一面もあります。日曜になれば、家族でどこかへ楽しみに行くのに車を使う。キャンピングカーで移動し、車の生活を楽しむ人びともいる。

役に立ち、楽しいけれども、事故が起きることがある。交通事故で命を落とす人の数はどのくらいかご存じですか。最近の数字で言えば、一年間に7千人ほどです。先ほど、校長先生から、こちらの学校の卒業生の方が命を落とされたとお話をうかがいました。事故は遠く離れた世界の話ではありません。

交通事故

交通事故でケガをする人の数は、一年間で約80万人です。皆さんのご家族、親戚、友だち、それくらいに範囲を広げていくと、みんな交通事故を経験していることになるでしょう。誰かが事故に遭っている。車の台数は9千万台くらいですから、多くて当たり前という理屈もあるかもしれない。けれど、人の命とか健康とかは、決して失われて当たり前と割り切ることができません。

交通事故事件といえば、テレビや新聞で、悲惨な事件が報道されますね。大阪では何キロも引きずった人がいたとか、それだけでなくあちこちでひき逃げ事件が起きたと報道されている。2年前には、福岡の海にかかる橋で追突事故が起き、ぶつけられた車が海に落ちて、乗っていた子どもさん3人が亡くなるという悲惨な事件が発生しました。皆さんも、まだ覚えているでしょう。多く中学生だった頃のことです。

こういう状況はどうしたら変えられるか。新聞やテレビが報道するような大きな事件ではないかも知れませんが、みなさんの学校の掲示板にも、事故が発生したという掲示がありますね。どうしたらこういう事故を減らせるのだろう。それが今日のテーマです。

車は、今ではあまりにも当たり前の存在になり、みんな空気か水くらいに思われている。工業高校の生徒さんなら、それは「産業が発達すれば、当然すぎるくらい当然の存在でしょう」なんて思っているかも知れませんね。でも、皆さん、車がこの世に登場してまだ120年くらいしか経っていないことをご存じでしょうか。NHKの篤姫の大河ドラマにも車は登場しません。それほど車は歴史の浅い道具です。

人びとは、内燃機関を考え出し、ピストンの上下動を回転の動きに変えるという科学を考え出した。車は、牛や馬に引っ張られるだけじゃなくて、車自体が動力源を持つことによって動くということを人類が知ったところから自動車の歴史が始まった。

話が横に逸れますけれど、人間のスピードに対する欲求とか速さを競いたいっていう思いには凄いものがありますね。車が発明されて10数年後には、もう、車のレースが行われている。今で言うF1のようなものです。時速20キロを越したとか、30キロで走ったとか、そんなレベルでもスピードを競い合っている。人間の本来の移動の早さより早く動くことに向けた人間の欲望、欲求、そしてそれを達成したことの喜び。車が発明されて10数年で、その思いがレースまで行く。人間というのは実に好奇心の強い動物ですね。

工業高校の皆さんには、「科学的な思考」には特別の思いがあるでしょう。「工業」は、英語でIndustryと言いますが、Industryには勤勉とか努力という意味があります。勤勉、努力の先に工業がある。人間の欲求の基本に勤勉や努力がある。それが工業を発展させ、産業を発展させて、今日の社会が作られている。それがこの社会の基本の構造になっている。前置きはこれくらいにして、交通安全の科学の話に進みましょう。

2 自転車事故の現場で

 実際に起こった事件を通して一緒に考えましょう。こちらの学校には、自転車通学の生徒さんが40%くらいいらっしゃると校長先生からお聞きしました。通学に使っていない方でも、生活の中で自転車を使っている方はとても多いと思います。今日は、まず、自転車を基本に交通安全を考えます。今日は、図面に書いて示すことができませんので、私の話を頭の中でイメージして、実情を思い浮かべながら聞いてください。

事件が起きたのは、午前7時半過ぎの通学途上でした。当事者は高校2年生です。道路は西から東に向かう片側一車線の直線道路で、路側帯があり、そこを自転車が走っていました。西から東に向かって2人で学校に向かう途中。郊外の団地の同じ棟に住む友人と2人で出発し、学校に向かうのがこの生徒たちの毎日でした。

道路は事故現場の手前130メートル辺りから上り坂になります。東西道路は坂のほぼ頂点辺りで南北道路と交差している。その交差点には信号機が設置されていました。彼らがその上り坂にさしかかったときには、交差点の信号は赤だったらしく、交差点の手前に車がたくさん止まっていた。そして、彼らの脇を走って行く後続の車はだんだん速度を落とし、さらに止まってゆく状態だった。車の動きや道路状況など、だいたいわかりますね。

西から東へ向かう道路の交差点の対面信号が赤なら、反対に東から西に向かう方向も赤ですね。ということは、その交差点の東側の西行き車線も車が待機中です。そして、高校生たちの進路から見ると、交差点手前のセンターラインの向こうの対向車線はガランとしている状態です。わかりますか、よくわからないと言われたら、説明し直しますが…。

その交差点を右に曲がると学校がある。ここで彼らはどう動こうとしたか。交差点まで坂を登り、信号に従って交差点を右に渡り、そして学校に向かう。それがスタンダードです。しかし、東進する車は自分たちの自転車と同じくらいの速度で走っていて、だんだん止まってゆく状態。車間距離も結構ある。その間に入り込むのは簡単だ。センターラインの向こう側はガランと空いている。このまま交差点まで進んだら、信号待ちになってしまうかも知れない。よし、斜めに行こう、そうしたくなりますよね。友だち2人、坂道なので立ち漕ぎの姿勢だったのではないかと思うのですが、斜めに車道の中に入っていった。先頭の高校生がセンターラインを越える。と、その時、対向車線を交差点の方からものすごい速度で大型のバイクが突っ込んできた。

坂を下ってくるバイクは高速です。東に向かう高校生たちから見ると、朝の7時半過ぎは太陽が昇ってくる方向。交差点方向は逆光の位置で、信号の色もわかりにくい。大体、130メートル先の信号なんてそんなに注意していなかった可能性もある。近くの車は止まっている。脇の車は止まりかけている。高校生の頭の中の信号機の色は赤だったのではないか。「ないか」と疑問形で言うのは、その子に真実を聞くことができないから。どうして聞くことができないのかと言うと、その子は亡くなってしまったからです。

 

安全確保の鍵は知識

自転車とバイクが正面衝突をすれば、どちらのライダーも大けがをして、下手をすれば両方とも死亡する。けれどもこのバイクライダーは、先頭の高校生をショックアブソーバーにして、奇跡的に大したけがもしなかった。一方、高校生は30メートル以上も吹っ飛ばされて、身体は地面に叩きつけられた。友だちは大けが。大型バイクの体当たりを正面から受けた彼は死亡したのでした。

立ち漕ぎをする自転車ライダーの視線は目前の地面に向かいがちです。交通信号が見えにくい体勢。130メートル先の対面信号が青に変わってもこの辺りの車はまだ動き出していないし、もっと後ろの車はこれから止まる状況。信号が変わっても、そこからの距離により車の動きには違いがある。しかし、車のことや車の運転のことをよくわかっていない人には、そのような状況は今ひとつピンとこないのではないか。

みなさんは、バイクに乗ったことがないと思うんだけど、バイクは加速性が非常に良いんですね。グインとアクセルを入れると、ヒューと出てしまう。対面信号が青に変わって、四輪車が交差点をちょっと出るくらいの時期に、バイクの方はとっくに交差点を抜けてダァーッと先に行ってしまう。しかもその先は下り坂。この高校生は、そういうバイクの動きもよくわかっていなかったのではないか。

高校生なら誰でもこのような行動をとりそうだなぁという気持ちがする。と同時に、知識を持ち、その知識に基づいて注意を働かすことができれば、この子は命を落とさなくても済んだのではないかという気持ちもする。推測を交えた言い方になってしまいますが、車の知識、交通に関する常識、交通安全の知識などが、この少年にもう少しあったら、状況は少し違っていたのではないかという思いが残ります。

注意も大事だけれども、私は、「注意がすべて」「注意一辺倒」という考え方を好みません。ちょっとした時に人の心に隙ができる。でも、車っていうのはこういう時にこういう動きをするものだ、バイクっていうのはこういう動きをするものだという知識を多少とも持っていると、注意の向かい方が変わる。知識が足りないことは時に注意力を散漫にさせる。車や交通の知識は、みなさんの安全確保のためにとても大事です。

3 自転車は加害者にもなる

  自転車の事件の話をもう一つしましょう。この事故は、農業用水を暗渠にした遊歩道で発生しました。農業用水路を遊歩道にしたので、道路がくねくねしている。数百メートルの遊歩道の端の出入り口には道路の真ん中に杭が打たれていて、通れるのは自転車と人だけ。道路の幅は3メートル程度しかない。

夜9時過ぎ、おばあさんが日課の犬の散歩で、この道路を歩いていました。年配のおばあさんです。そこへ自転車に乗った青年が仲間と2台で前方から走ってきた。大学生の友だちどうし。先頭の1台は2人乗り。後ろは後輪の車軸に足をかけ、ライダーの肩に手をかけていたようです。続く自転車は1人乗り。それが走ってきた。

先頭の1台がおばあさんの右側を走り抜けようとし、続いてもう1台がおばあさんの左側を走り抜けようとした。挟み撃ちの格好です。薄暗い夜道を屈強そうな青年たちが勢いをつけて自転車で急接近し、おばあさんの身体をかすめるように両脇を抜けようとした。パニックに陥ったおばあさんは、パッと手を出して身を守ろうとする。その手が先頭のライダーの腕のあたりをつかんでしまった。恐怖心でしょうね。そして、そのままその場にバタンと尻餅をつくように倒れてしまった。

救急車で病院に運ばれたけれど、大腿骨の骨折などでそのまま入院。それっきり半年以上もの入院生活になってしまった。お年寄りは若い人のように治りが早くないんですね。その後も長い通院生活が続き、治療期間は優に1年を超えてしまいました。

この青年は法律的な責任を負います。不注意で自動車事故を起こして他人にけがをさせると、一般に「自動車運転過失障害」という犯罪が成立します。自転車の場合は、「重過失障害」という犯罪になる。彼は、重過失障害の被疑者になってしまったのです。

この青年は、治療費や慰謝料などの賠償請求を受ける被告にもなりました。皆さんは、この青年はいくらの賠償金を払うことになったと思いますか。保険に入っていなかった彼は、結局、自分自身の責任で500万円もの大金をこのおばあさんに払わなければいけないことになりました。協議の結果、分割払いにはなりましたが。

皆さんの中で自転車を持っている人、手を挙げてくれますか。大半の皆さんが持っていますね。その中で保険に入っている人、手を挙げてくれるかな。あぁ、すごく少ないですね。1割か2割だろうか。保険に入っていないということは、賠償責任はすべて自分自身が負うということです。1年以上の裁判の結果、この青年は、賠償責任を負うことになり、以来、毎月、分割で賠償金を払い続けています。大学を出て、就職して新しい生活が始まっても、長い年月をかけて月々何万円というお金を払い続けるのです。

 

自転車の左側走行義務

もう一つ、お話ししましょう。この事件の当事者は専門学校生でした。自転車は車道の左側の端を走ると決められていることは知っていますね。歩道の通行が許されているところでは歩道を通行してもよい。でも、原則は車道の一番左端です。この専門学校生は、左端ではなく、右端を走行していた。そうしたら向こう側から50代後半の女性が決まりどおり左端を走って来た。左端と右端の走行ですから、二人は正面から向かい合います。衝突を避ける余裕が一瞬なくなり、彼は彼女と正面衝突する。体格の劣るその女性は飛ばされ、近くに倒れて縁石か何かに頭を打った。彼女は、それっきり植物状態です。言葉を発する能力はもちろん、感情を示す方法も失い、何かを考え、思っているのかどうかもわからない、ただ栄養剤だけで生きている無反応な状態になってしまっのです。

この青年も刑事責任を負い、民事賠償責任も取らなければならない状況に陥りました。お父さんは地方で単身赴任の生活。本人は言うまでもなく、そのお父さんにも資産らしい資産はありません。お母さんと2人で暮らすマンションは、ローン支払いの最中。厳しい厳しい人生が彼を待っています。被害者もその家族も、加害者もその家族もみんな地獄です。これが自転車事故の一つの真実です。自転車も時に命を奪われる被害者にもなれば、時にこのように加害者にもなる。

4 安全の科学を考える

 自転車の事故の話ばかりしましたけれど、いろんな事故があります。自動二輪車の事故、そして四輪などの乗用車などの事故、トラックの事故などを合わせますと、交通事故は毎年7~80万件も発生し、7千人もの人が亡くなっています。どうしたらこれを減らせるのだろう。どうしたらなくせるのだろう。そのことを考えたいと思います。

大きな柱は、科学的で確実な対策をしっかり立てることです。でも、科学的な対策って何だ。工業高校の皆さんとしては、ここからは、自たちの課題と考えてほしい。自分に引きつけて考えてほしいと思います。

こういう比喩で問題を考えてみましょう。建築工事の現場にパイプの足場があります。作業に従事している労働者が足場を伝って行ったり来たりしている。足場には板が張ってあるが、注意をしないと足を踏み外して落ちる。落ちないための工夫としては2つのことが考えられる。1つは、足場の幅は45センチしかないということを自分に言い聞かせ、いつも注意するようにつとめるという方法。もう1つは、45センチはいかにも狭い。60センチにしたらどうだろうか。そういう方法もある。

「毎朝、『足場の幅は45センチ』と10回唱えてから現場に行け」という対策ですますのは合理的ではない。生身の人間は、どこかで気持ちにゆるみも生じる。かといって、じゃあ、足場の板の幅を1メートルにも1.5メートルにもして、上で踊りでも踊れるくらい広くしたら、今度は足場だらけでビルを建てる余地がなくなってしまう。それも変だ。合理的で科学的な対策と、自分自身に向けた注意喚起は、その両方がつながり重なって安全の実現に向かうのでしょう。

工事現場のパイプの足場の話をしましたが、交通安全もそうです。すべての危険への対応には、その考えが欠かせないと私は思います。

 

合理的な対策

突然話が昔にさかのぼります。2000年前、ローマから少し離れたところにヴェスヴィオ火山の噴火で瞬時に土に埋まってしまったポンペイという町があります。火山灰で埋まった家族の団らんの状況までが発掘されています。街を走る道路も発掘されています。その道路には、車道と歩道がちゃんと区別されている。ローマ時代の車道っていうのはエンジンで走る自動車の車道ではありません。馬とか牛とかが引っ張る車はローマの時代からあった。その車が走る車道です。

車が走る車道と人が歩く歩道が分かれている。人が歩く道路と車が走る道路を分けるのを「人車分離」と言いますが、人車分離で人と車を離した方が事故になりにくいということを当時から考えていたことがわかります。簡単なことのようですが、人類の安全対策の古い知恵であり、そして現在に至ってもなかなか実行されていない知恵です。
交通事故事件の6割ほどは交差点で起きています。交差点は、車と車、車と人が交錯するところですから、事故がとても多い。減らそうと思えば、その交錯構造を減らせばよい。まずは、車と人をなるべく離す。交差点が立体交差になっているところがありますね。車と車の関係でも、平面上を行き来するのはやっぱり危ない。車と車も離した方がよい。人と車はもちろん離した方がよい。その人車分離の思想が2000年前のローマ時代からあったのです。

これは、「ひたすら注意しろ。注意がすべてだ」という議論だけでは済まさないという人類の知恵です。注意も大事だが、知恵も大事です。知恵とは何かと言えば、それは科学的で合理的な対策です。車という120年の歴史しかない道具についても、同じことが言えなくてはいけない。

これとまったく反対向きの考えがあります。「精神一統何事かならざらん」と言うのですね。精神を集中すれば何事もできる、精神をきちんと集中させればできないことはこの世にないっていう話なんですね。交通安全をどう実現するかを考えるときに、この思想をそのど真ん中に置くことは正しくない。間違いです。精神は大事だが、精神だけではダメです。正解は、精神と客観的対策を両立させよ、です。

5 安全はどう実現するのか

  じゃあ、科学的で合理的な対策って何なのか。例えば、車を安全なものにしようということで、めっぽう頑丈に作ってみた。ぶつかっても確かに壊れない車はできた。ヨーロッパでは、実際に小さい戦車みたいな車を作ってみた会社もある。しかし、頑丈に作った車と頑丈に作ってない車がぶつかると、頑丈でない車の方は滅茶苦茶に壊れてしまった。どうも頑丈だけではまずいようだ。

じゃあ何でもかんでも柔らかならいいか。それはまずいだろうということはわかりますよね。では、どうする。そこが科学です。到達点をご紹介しましょう。結論から言いますと、周りを柔らかくして中をしっかり作る。そうすると、車と車がぶつかった瞬間に周りの柔らかいところがグチャッと潰れあって、真ん中が保存される。歩行者にぶつかった時にも、歩行者への打撃力、衝撃力が下がってダメージが減る。

ハニカム構造と言います。蜂の巣のハニカムです。周りを潰れやすく作る。段ボールの断面を見てください。段ボール板は紙で作られた割にはしっかりしていますよね。あの紙と紙の間にはたくさんの隙間があります。その存在が外部からの衝撃を吸収するのです。あの状況を車の周辺部に作っておくと、ぶつかった時にグチャッと潰れてくれて、中が守られる。交通事故でぶつかった車の写真を見たことがあると思うけれど、グチャグチャに変形している場合が多いですよね。周辺部を比較的柔らかく作ってあるためですね。これが車を安全にすることなのです。

 

車を安全にする

車には、車そのものを安全にする工夫が様々に凝らされています。例えば、車がぶつかった時に、ステアリングの真ん中からボッとエアバッグが出てくる。皆さんは、経験していないかもしれませんが、そういう構造になっています。エアバッグに入っている爆薬の衝撃で、一瞬のうちにバンと大きな風船を膨らませる。その風船がステアリングや車内前部の構造物に自分の身体が激突するのを防ぐ。

時速50キロでぶつかる車の衝撃を和らげるとなると、エアバッグは爆発的に膨らまなければなりません。膨らみ方は柔なものじゃない。顔のところでバッグが膨らんで死んでしまった小さな子どもさんがいる。顔の位置が低かったのですね。教室の床にステアリングとエアバッグを置いて点火すると、教室の天井どころか体育館の天井くらいまでステアリングが飛んで行きます。バーンと飛び上がります。その勢いで、私たちの身体が慣性の力で前に進んで行くのをからくも止めてくれるのです。これも車の安全です。

シートベルト。身体が急激に前進しそうになると、ベルトががちっと固まって身体をバックシートにくくりつけてしまう構造ですね。車の座席と人間の身体を一体化させ、人間が慣性の力で前方に飛んでいかせないようにする。人間の身体は、走っているときには車と同じ速度で地上を移動している訳ですから、車が何かの衝撃を受けてバッと止まったり、急減速したりすると、乗員はそれまでの移動をそのまま続けようとする。その結果、ステアリングなど、車体の前部の構造物に乗員の身体がぶつかって衝撃を受ける。それを止めるためには、バックシートに乗員の身体を括り付けてしまえばよい。乗員がそれまでの動きを継続しないように椅子に固定してしまえというのがシートベルトです。

シートベルトもエアバックも車の安全対策です。こういう科学を徹底させることによって、交通事故の負傷者や死者の数を極小化しようとしている。40年前までは、この国にはエアバックもシートベルトもなかったが、今ではつけなければ走れないことになった。

 

交通安全施設を充実させる

交通安全施設。一番ポピュラーなのは信号機です。赤、青、黄色の信号機、ガードレールもガードパイプもそうです。交通安全施設を充実させることは確実に交通安全につながります。交差点の手前で車道の舗装面がざらついているのを見たことがあると思うのですが、あれは、ざらつきの程度を強くして、車がブレーキをかけると、止まりやすいようにしているんです。摩擦係数を高くすると、制動が少し遅れても、素早く止まって車が停止線の手前で止めることができるようになる。その1方法です。

ガードレールやガードパイプが変形しているのを見たことがあるでしょう。これは不良品なのではありません。ガードレールやガードパイプを頑丈にし過ぎると、そこにぶつかった車が大きく跳ね返されて、とんでもない方向に飛ばされて、対向車両などとぶつかったりすることがある。そうならないように、レールやパイプは少し柔に作る。なるべくぐちゃっと吸収する構造にしてある。ハンモックのようにですね。不幸にも事故が起きてしまった場合に、その被害を拡大させない工夫の一つです。

 

過労運転

東名とか名神とかの高速道路を2日間くらい寝もしないで走り続けるというようなことを聞くことがあります。東京から下関までまったく休まずに行って帰ってきたとかですね。そのような運転の中で、衝突事故を起こしたり、人を轢いてしまったりする。原因は居眠り運転です。そういう事件を防ぐためには、「私は居眠りをしないと一日百編唱える」よりは、途中できちんと休むようにし、また休ませるようにした方がいい。2日間寝ないで走っていてはダメだ。そういう場合の最大・最良の交通安全対策は眠ることだ。そういう議論も当然出てきます。

労働加重の運転をすると過労運転の背後責任と言います。それを強いた責任者は、道路交通法で処罰されることになっているのですが、はなはだしく実効性に欠けます。過労運転は珍しくないのに、処罰事例は本当に珍しい。今、この国の経済状況はひどく悪いから、運賃単価も低くなっていて、いきおい運転者は長時間運転を強いられている。休まず長距離を走らなければならない状況があちこちで発生しています。そうすると居眠り運転も起きる。長野から大阪に行ったバスが大阪市内で高速道路の橋脚にぶつかった事件がありましたが、その運転手さんは2日間ほど寝てなかったという報道がありましたね。過労運転をなくす対策も立派な交通安全の対策です。

 

救急医療

事故が起き、救急車が来て、患者さんを病院に運ぼうとする。すると、予定した病院から、「うちは受け入れ態勢がない」と搬送を断られる。あちこち回っているうちに患者さんが亡くなってしまう。いわゆる「たらい回し」です。現場収容から医療活動までの時間がかかると、急速に生存率が下ります。1分でも早く処置をする必要がある。不幸にして事故が起きてしまった。そして、救急医療の不備が原因で命を落とす。それを何とか減らそうと、救急医療の改善策が考えられているけれど、まだ非常に遅れている。死なないで済む命をむざむざ死なせてしまっている。

あれこれお話したこと、いろいろな対策の中に、もう1つの柱として、注意して事故を起こさないようにしようという安全対策がある。そして、これらの安全対策の全体が適切に結びついて、はじめて交通安全が実現される。そしてまた、それらのことをしっかり結びつけて考える人が本当に交通安全を考える人になるのです。

6 実践的な取り組みを通じて

 まだ在学時間が長い1、2年生の皆さんに、提案したいことがあります。それは、みなさんの通学路にどんな危険な箇所があり、どう危険なのかを、自分たちの体験を通してつかみ、改善に取り組んでもらいたいということです。先生方は、学校の近辺で発生している事故を画像付きで紹介し、警告を発しています。ヒヤリとしたり、ハッとしたりする体験が蓄積される中で事故が起きることが知られています。皆さんには、事故が起きる前に発生しているそれらの小体験を自分の力で科学的につかんでもらいたい。

校門を出たところに信号機のない交差点がありますね。例えば、こういう交差点などに、撮影中であることが目立たないようにビデオカメラを置いて、長時間撮り続ける。最近はバッテリーが長く持つからそれは可能です。皆さんが近くにいると、何だろうとみんなが気を使うから、できるだけ隠れる。ポイントは生徒が多く使っている道路の中から選ぶ。録画記録を見て、「これは危険だ」「ヒヤリ、ハッとだ」「ちょっと危ない」と思うものを集める。5時間撮ったって、そういうシーンは15分くらいです。編集するのですね。その編集作業も生徒たち自身でやる。

今度はみんなでこれを見る。この運転はどこが問題か。この交差点にはどのような問題があるのか。みんなで論議する。議論はとても大事です。自分がここの道路をいつもどのように使っているのかを反省するきっかけにもなる。対象は生徒の行動だけではない。町のおじさん、おばさんの行動も含めてよい。

その議論の結論として、「こういうふうにしたらもっと事故が減るはずだ」という方向性をみんなで出す。現場に掲示板を出したらとか、ミラー板を付けたらとか、停止線を引いたらというようにですね。自分たちだけで実践できることもあるでしょうが、問題により、警察や公安委員会だったり、市だったり、県だったりと、いろいろな役所の問題になることもあるでしょう。事情を聞きに行こうとか、お願いをしようとか、いろんな方針が出てくると思います。

そして、それぞれのところに、皆さん自身が出かけて行く。自身の身体を使って行動するところまで行き着くのです。思ったとおりの結果には容易にならないかもしれない。どうして実現できないのかと考えるのも交通安全です。みなさんが考える結論が簡単に実現できないとしても、実現をめざす努力が交通安全を考える機会になります。

お父さんやお母さんは、学校に出かける皆さんに、「気をつけてね」と一声かけるでしょう。校門を出るみなさんに、学校の先生は「気をつけて帰れよ」と声をかけるでしょう。その言葉が皆さん自身の心にしっかりしみ込むには、このような努力がとても大切です。そうすれば、ただ注意、注意と言っているだけの自分ではなくなるからです。

7 交通事故に遭遇するということ

 しかし、私は、今日のお話しの最後に、事故に遭ったことが、その人とその家庭を大きく変えてしまうという、根本的な深刻さに触れたいと思います。さきほどの高校生の子どもさんを失ったお母さんは、涙はもう流しきったという風情で、私の前で涙を流さない方でした。お母さんは、子どもさんの喉仏の骨、これはお坊さんが座禅を組んでいるときの姿に似ているんですね。その喉仏の骨だけは骨壺に入れず、ロケットの中にしまっているとおっしゃった。「私は子どもと生涯一緒です」。そのことを私に話されたときに、涙を流されました。

ランドセルも買い、入学式を楽しみにしていた一人っ子が、自宅マンションの玄関先で、トラックに轢かれて亡くなりました。お父さんとお母さんは、子どもさんが亡くなった所にいたくないという思いと、離れられないという思いの狭間で苦しみ続けました。マンションの玄関は通れない。いつも通用口から出入りする。そのマンションの中庭でよそのお宅の子どもさんが遊んでいるのを見るのがつらいから、カーテンは長く閉めたままです。事件が起きてからだいぶ経ってからお宅をお訪ねした時に、「亡くなって以来、初めて今日カーテンを開けます」と言われました。子どもさんのお骨はタンスの上。「変だとお思いでしょうけれど、他に方法がありません」とおっしゃる。子どもさんの血染めのシャツが冷凍庫に入っていました。「誰もいない、テレビも見ない、そういう生活を何年も続けています」。それがお母さんの言葉でした。

 

事故の真相を究明する

「大学は、自分で働いて行きたい」と言い、新聞配達店に住み込んで奨学資金をもらい、朝刊・夕刊の配達をしながら大学に通い始めた青年がいました。大学入学半年後の秋、朝の配達の帰りに、信号機のある交差点でワゴン車とぶつかって跳ね飛ばされ、2週間後に亡くなった。「お父さんボク悪くない、ボク悪くない」。それが彼の最後の言葉でした。

こちらは業務用バイクで、ぶつかった相手はワゴン車。ワゴン車の運転手は次のように言いました。「自分はあの交差点を真っ直ぐ進もうとしていた。信号機の色はもちろん青。対面方向から来たバイクが自分の目の前で急に右折をして、自分は急ブレーキをかけたけれども間に合わなかった」と。対向車線から来たバイクが自分の直前で右折をするということは、ワゴンの運転手から見ると、自分の車の直前で右から左へバイクが移動するということです。自分は青信号で直進しようとした。この事故の責任は、急に右から突っ込んできた対向バイクにあるというのがワゴン車の運転手の主張でした。

とすると、息子さんが「ボクは悪くない」と言っていたのはどういう意味か。お父さんは納得がいきませんでした。息子さんの死の真相を明らかにしようと言うお父さんの弔い合戦がそこから始まりました。

息子さんの新聞配達区域は、ワゴン車の運転手から見て交差点の右側でした。残紙がほとんどなかったので配達後の事故だということは明らかでした。バイクは交差道路を右の方から進んできていたのではないか。実は息子が青、ワゴン車が赤。ワゴン車の運転者は、自分の信号無視を覆い隠そうとして息子を対向車に仕立て、ともに青信号に従ったことにしたのでは? お父さんは、「バイクが自分の車の直前で突然右折をした」というワゴン車運転手の言い分に強い疑いを持ちました。

しかし、配達区域はこの交差点から2キロくらい離れている一帯です。新聞配達店への帰りにどの道を通って帰ってくるのかは一概には言えないと反論もされました。自動販売機で何かを買おうとすれば対向車線の先の方向に行く可能性もある。道草をくって帰る子じゃない。小遣い帳の昨夜の記帳を見ると、実際にポケットに残っていたお金とぴったり合う。この日の朝何かを買ったはずがない…。激しい論戦はあったものの、結論を決める決定打にはなりません。どうしても科学的な分析が必要だということになりました。お父さんは、分析できる人を探して北海道から九州まで各方面の研究者に、この事故を分析してほしいとお願いをしました。

ぶつかったバイクが飛んだ距離や方向、青年が飛んだ距離や方向などから、事故状況がわからないか。鑑定分析の結果が出てくるのにまた長い期間がかかりました。そして、ついに鑑定が出ました。「この事故は、交差方向の道路からこの交差点に進入したバイクにワゴン車が直角の方向からぶつかったものである」。そして状況を総合的に判断して、ワゴン車が赤信号を無視し、バイクは信号を守ってこの交差点に入ったのだろうということになったのです。お父さんの弔い合戦が勝利した瞬間でした。

 

お父さんへの質問

その裁判の法廷には、お父さんだけじゃなく、お母さん、ご兄弟、そして親戚の皆さんまでがいつも詰めかけていました。「ボクは悪くない」と言う息子さんの言葉を信じて、お父さんは闘い抜き、闘い通しました。

そのお父さんに対する最後の質問をする日でした。皆さんも、テレビドラマなどで法廷シーンを見たことがあると思うのですが、私は、お父さんに最後に尋ねる質問をどうしようかと考えました。私たちは、ふつう、裁判の前には詳しく打ち合わせをして臨みます。でも、お父さんがこれまで胸に秘めてこられた思いは、打ち合わせをしない質問の方がもっとリアルかも知れない。この日の最後の質問は、打ち合わせをしないでやってみようと思ったのです。

ふと見ると、お父さんが黒いネクタイを締めていることに気がつきました。そのことを聞いたら、お父さんはなんてお答えになるかなと思いました。

「お父さん、今日は黒いネクタイをしてこられましたね」。

私の質問に、お父さんは応えました。

「いいえ」

えっと思いました。お父さんのネクタイはどう見ても黒い。裁判官も怪訝な顔をしたようでした。しばらく間をおいて、お父さんは続けました。

「いいえ、私は今日だけではありません。あの日からネクタイはいつも黒だけです」。
「……」

私は、それまで、お父さんと何十回も打ち合わせをしていました。ずいぶんよく知っているつもりのお父さんでした。しかし、私の目は実に節穴で、ネクタイがいつも黒だったことにはまるで気がつかなかったのです。
しばらく法廷は静寂に包まれました。

 

むすびに

その死が肉親に残す傷、それと闘う肉親の思い。元気なときは軽口や乱暴な口をきいているかも知れないけれど、取り返しのつかない事態に直面した肉親は、ぎりぎりのところに追い込まれる。これからどう生きていくのか。自転車の高校生のご両親も、小学校に入る直前の息子さんを失ったご両親も、息子さんの弔い合戦を闘ったお父さんも皆同じです。死んではいけないし、死なせてはいけない。
今日は、私の体験のごくごく一部のお話をしました。人が自ら天から受けた生を精いっぱい楽しみ、幸せで愉快な人生を送れたはずなのに、ある瞬間まったく突然に、その思いが断ち切られる。断ち切られた中で生きていかなければならないことになる。

皆さんは、大人になり、結婚もされ、家族を持つことにもなるでしょう。その人生のど真ん中で、もし今日お話ししたようなことが起きてしまったら、残りの人生をどう生きてゆくのか。交通安全という言葉は、町中どこでも見かけます。月並みすぎて、陳腐に過ぎて、その言葉から何かを感じろと言われても、あまりにも内容が乏しいようにも思います。

人の死は一人の死がすべてです。人の傷害はその傷害がすべてです。件数や数字で表現することのむなしさを強く感じます。そのことを前提に申しますが、やはり何としても交通事故の件数を極小化し、ついには根絶したい。人間が作り出した英知であり、人間が作り出した大きな楽しみである自動車。その有用性を保ちながら、可能な限り危険を小さくし、人生やこの社会をより幸福にしたい。

「交通安全を自分たちの生活の中から考える」。それが今日のテーマでした。交通安全の実現とは「もっと注意をしよう」などという小さなことではない。注意を尽くすことはもちろんだが、そこにとどまらず、科学的で合理的な安全対策を考えることこそが交通安全なのです。おうちに帰ったら、お父さんやお母さん、またご家族の皆さんと得心が行くまで話し合ってほしい。注意だけでないもっと豊かな内容をつかみ取ってほしい。

人を気遣う、人に気を配る、そういう瑞々しい感性を自分の中に育てる。世の中があまりにも災い多い時代になっています。生きること自体が大変な時代です。「親たちがそういう社会を作ったんじゃないか」と、大人を批判するかもしれない。「交通安全の実現の責任はあなたたちにある」と言われれば、そのとおりです。そのとおりなのだけれども、みなさん方は、これからその大人になってゆく。皆さんの次の世代から、今度は「あなたたちに責任がある」と指弾されることのない人生を歩んでほしいと私は思います。

私はもう年寄りですけれども、どこかでおまた皆さんに会いするかもしれない。今日の私のお話をどこかの何かの行動に生かしていることをその時知るかも知れない。心密かにそれを期待しています。頑張ってください。

長い時間、お話を聞いてくださってありがとうございました。

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