交通事故時の補償解決実績、および著書、講演実績多数 交通事故の弁護士と言えば高山法律事務所

講演「危険運転致死傷罪を考える」

交通事故の弁護士と言えば高山法律事務所 TOPページ > プロフィール > 高山俊吉の考え > 講演「危険運転致死傷罪を考える」

講演「危険運転致死傷罪を考える」(1)

(08.6.24 京都市 立命館大学創思館)

1 はじめに

高山俊吉と申します。歴史と伝統のある春季学術講演会にお招きいただいたことに、心から御礼申しあげます。松宮先生はじめとする多くの先生方、そして学生の皆さま方のいろいろなご準備で、この講演会が実現したということでございます。

私が大学生になったのは、もう昔々のことです。思い起こせば、だいぶ年上の先生ですとか、外部招聘の講師ですとか、いろいろな方のお話しをお聞きしました。私自身、大学の非常勤講師を務めたことがあるのですが、講師のほうは、学生の皆さんにお話しした経験を意外に忘れないものです。

今日は、皆様方としばらく一緒に考える機会を持ち、私の記憶に皆さんとの出会いを留めさせていただきたいと思っております。

私は長い間交通事件に関わってきました。日本の交通事故事件の激増の時期は、いまから38年ほど前です。1970年が交通事件のピークの年でした。私が弁護士になったのが1969年ですから、まさにそのピーク状態の経験がそのまま現在まで固着してしまったわけです。交通事件と言えば車やドライブに関わります。それはいささか減退しているとは言え、依然として若い方たちの大きな関心事の一つです。

若い人たちの雑誌に、「プレイボーイ」があります。私は、若いころ、「プレイボーイで有名な高山先生」と紹介されたことがありました。「『週刊プレイボーイ』によく出ている弁護士」という意味です。最近は、「裁判員問題で頑固な主張をしている爺さん」になっています。先週の「プレイボーイ」にも、鈴木宗男さんという方と一緒に出てこの問題を論じています。話が横にそれてしまいますが、この方の裁判員制度批判はたいへんおもしろいですね。というような訳で、私は、ずうっと車の問題、交通事故の問題に関わってきているのであります。

今日は、私が1時間ぐらいお話をして、あとは質疑の時間をもたせていただきます。皆さんのお手元にお配りしている「危険運転致死傷罪を考える―その概念と刑事政策上の意義―」に依ってお話をします。交通事件に関わるなかで、若い法学生として活用していただければというようなことで、あまりむずかしいお話はしないつもりです。

交通事故事件の歴史と現状

交通事故事件の発生数は、1970年をピークに、その後減り、そしてまた増えるという経緯をたどり、いまはまた減少傾向をたどっています。交通事故事件は、どういう種類の事件が年に何件とかいうように、数でものを見、数でものを言うことが多いですね。私はたくさんの事件に関わり、事件の話をするときに、数の話になって非常に虚しい思いをします。交通事故は1件1件がすべてです。交通事故の被害者は、「我が家の交通事故件数はこの10年間何%の割合で減った」などと言いません。1件が起こればそれがすべて。すべてはその1件です。
数字で理解するのは、状況の認識や伝達の重要な方法ですから、それはそれで致し方ないのですけれども、事件の深刻さや重大性を正しく理解する方法としては、まことによろしくない時もあります。
私は、高校生に交通安全のお話をすることがありますが、数字の話になった途端に講堂全体にざわざわと私語が広がる。リアルな現場の話になるとしわぶき一つなくシーンとする。つまらないか、興味深いかを、彼らは見事に聞き分ける。「聞き分けのよい子たち」です。学校の先生にお話をすると、先生方はずっと静かに聞いてくれています。そのように見えますが、失礼な言い方をすれば、高校生の方がもしかしたら正直なのかも知れません。
長い棒を持った男の先生が何人も私に背中を向けて通路に立っている。高校生たちの席の中に作られた通路です。生徒が私語をするとその肩をポンと叩く。「風が吹けば桶屋が儲かる」といいますが、「高山の話がつまらないと生徒が叩かれる」のはなんとも理不尽です。先生方には壇上の私を囲んでいてもらい、私の話がつまらなくなったら、私を叩いてもらいたいと思ったことがあります。余計な話をしましたが、市民生活の中で交通事故事件が占める重みを考えるということは、高校生だけでなく、今日のテーマにもつながると思います。

毎年、6,000~7,000人ぐらいの方が交通事故で亡くなっています。毎年8月12日がくると思い出しますけれども、群馬県と長野県の境の御巣鷹山にジャンボジェット機が落ちて亡くなられた方が520人でした。その死は数では言えないのですが、その十数倍の人が毎年亡くなっている。減ったというだけで喜んではいけないが、その一樹この間大きく減ってはいる。過去のデータを言えば、1970年には交通事故の死者の数が16,700人でしたから。最近ようやく負傷者の数も減少しています。

この38年間に、車の台数も運転免許保有者の数も往時の3倍を超えました。それを考えれば、交通事故事件は相対的には激減したといってもよい。しかしながら、人の知恵は、交通事故をゼロにするまで駆使しなければいけない。車は、利便性が高く、生活を楽しくする道具であると同時に、人を死に致し、健康を侵するツールでもある。人間にとっての効用性を最大限保障しつつ安全なツールにどこまでできるか。車がこの世に登場して120年ぐらいですが、車はまだまだ本当に発達途上のものです。

交通犯罪捜査の歴史と現状

交通事故事件は、長く「業務上過失致死傷罪」と称され、昨年からは「自動車運転過失致死傷罪」という罪名で呼ばれるようになりました。また、これに関連する交通犯罪には、道路交通法違反がある。そういうものを組合せながら交通犯罪に対応するのが、交通捜査の実情です。

交通事故は、さまざまな要素の複合の結果として人を死に致したり、怪我をさせたりするものだけれども、直接の引金を引いたのは誰かという理屈で追求するのが、交通犯罪捜査の基本になっています。

それは実情にかなっているかという議論はかねてからありましたが、20年ぐらい前から、その不合理感は、交通事故事件の大半を起訴しないことで「決着」をつけた形になっています。現在では、交通事故事件は、10件のうち9件は起訴されないため、とりあえず被疑者側からの批判や不満は多く「解消」される。でもそれはいわば「数の上での解決」であって、「質の解決」ではない。

トリガーを問題にするというのは、具体的にはどういうことか。例を挙げます。大型のダンプカーやトラックが交差点で左折をしようとしてハンドルを大きく左に切ると、内輪差(後輪と前輪が通るラインの差)が大きくなります。その車両の左側に、人や自転車や自動二輪車などがいたりすると、大型車両は側方からそれに寄っていき、人や車両などを轢いたりする。「左折巻き込み事故」と言われ、ダンプ運転者を中心に、かつて大きな社会問題になりました。事故を起こした運転者は、次のように言われました。「長年、ダンプの運転をしているのだから、ダンプカーの左側に広く死角があることを知っているはずだ。その死角に歩行者や自転車や自動二輪車がいるかも知れないと考えるのが当然だろう」。

死角を極小化する自動車メーカーの責任はなぜ問題にならないのかというと、大型車両には死角があることを知っているかいないかということから考え始めるからです。警察や検察だけではなく、裁判官も法廷でそういう思考方法で運転者の被告人を問いつめます。

そうすると現実はどういうことになるか。ダンプの運転台は右の端から左の端まで結構長い。そして車の左側後方に死角がある。ルームミラーやサイドミラーに映らないところがあるから、お尻をずらして左の助手席側ドアのところまで寄っていって、肉眼、直視で後方を見ろ、ということになる。そこまで行って後方を見たら、そこには誰もいないとわかったら、やおら運転席に戻って出発してよし、というわけです。で、彼は再びお尻をずらして右端の運転席に戻った。しかし、その間に人が死角に入ってきているかもしれない。いないとは言い切れない。だったら、もう1回見にいきなさい、となる。またいって、後ろを見た。誰もいない。またやれやれと戻る。そのときに人が死角に入ってきたらどうするか。左折を企図するダンプは、交差点の手前でついに動けないことになる。そうおっしゃったダンプの運転者さんがいました。

どうしたらいいのか。私たちは車両改善要求の運動に乗り出しました。ダンプカーの死角を極小化することができないか。皆さん方は、助手席側のドアの下に小窓がついているダンプカーが多いことをご存じでしょう。私たちがこの運動をする前は、そこは小窓などありませんでした。そこを切り取っただけで、左側がかなり広く見えるようになった。この工夫でダンプの左巻き込み事故が激減したのです。簡単に「事故の責任をとらせる」と言いますが、誰にどういう責任をとらせるかが問題なのですね。

時差式信号機をご存じでしょうか。時差式信号機というのは、自分が進行する方向が青信号になっていても、対向方向の車両に向かい合っている信号機の表示はまだ赤信号になっている。表示色がそろって変わらない。そういう危険な信号機です。

信号機が設置されている交差点に入り、そこで右折しようと思っている。自分の対面信号が赤になった。対向方向の信号も当然、赤に変わっているはずだ。そこで右折行動を開始した。ところが、対向方向はまだ青だった。そこに突っ込んできた対向直進車が右折車に激突して大事故が発生する。時差式信号機の交差点で、この「右直事故」が起きた。
「時差式信号機は危険だからなるべくやめよ。どうしても時差式信号機にする必要がある交差点なら、この交差点の信号は時差式だと明示せよ」。これが、警察庁が各都道府県の本部あてに発した通達でした。しかし、全国の警察本部のうち神奈川県警だけが、なぜかその指示に従わず、時差式の表示をしなかった。そして、その交差点が時差式信号機の交差点であることを知らないドライバーが、右折しようとして、対面直進自動二輪車に激突され、二輪の運転者が路上に投げ出され、亡くなった。その事件について、右折車両の運転者の刑事責任が問われた。

警察庁の通達に従わず、神奈川県だけが時差式の表示をしなかったのだから、悪いのは県警本部長や交通部長などではないか。それでも、右折車両の運転者が処罰されるのはなぜか。

2 危険運転致死傷罪登場の事情

「悪質」な事件の登場

「悪質」な交通事故事件が増えていると言われます。お酒を飲みながら高速道路を運転して死亡事故を引き起こし、幼い子供たちの命を奪う事件が発生した。交通事故事件について、「悪質」と「非悪質」を区分した統計資料はありません。「悪質」な事件が増えているというのは、一種の体感論で、数値的データがあるわけではない。マスコミや識者が話題にすれば「悪質」が増えたような気がするし、みんなが問題にしなければ、増えていないように感じる。一種の「体感悪質」ですね。

でも、その体感が状況を大きく変えるときがある。危険運転致死傷罪の登場の背後には、そのような空気がありました。

 

被害者の問題

「悪質」交通事故事件が増え、なんとかせよという話になった。特に問題になったのは、飲酒ドライバーが事故を起こして逃げるという事件についてです。被害者のご遺族の声は切実でした。命に関わることは「切実」という言葉さえ憚られます。命の喪失は取り返しがつかない「絶対」のものだからです。

その被害者から、「どうしてくれるのだ」と迫られたときに、「冷静に考えよう」とか「いろいろな視点から考えよう」などと言っても通用しない。私たちは、悲惨な事故のために無間地獄にいるご遺族を前に、簡単に対応できる言葉を持ち合わせません。

 

プレスキャンペーン

10年ぐらい前から必罰、重罰の動きが急速に高まりました。当時、先頭を切ったのは毎日新聞でした。被害者の思いを伝えることに紙面が大きく割かれました。私は、雑誌「世界」(1999年9月号)に、交通事故の報道のあり方を懸念する短い文章を書いています。被害者やそのご遺族の思いに対する関心は当然のことですが、処罰一辺倒の思考方法にはある種の偏向があり、事故を根絶するには合理的で科学的な取り組みが不可欠だということをそこに書きました。

交通事故事件の真相究明は、ピンセットで薄皮を剥ぐように、丁寧に、緻密に極めるものです。文字どおり一瞬に起こった事故について判断をしなければいけない。しかし、責任の有無や程度を見極めるには、詳細を極めた分析が要る。憤懣を発散させる世界とはおよそ縁遠い冷静な場面の話になります。

 

加害者も保障されていない

「加害者の人権は保護されているのに、被害者の人権は保護されていない」などとよく言われます。加害者の人権の保護というのは、被疑者・被告人の無罪推定原則とか、被告人の基本的人権の尊重だとかの刑事訴訟の基本ルールのことを指すのですね。私は、この時代は、加害者の人権も被害者の人権もともに尊重されていない、と思います。刑事基本権と言っても、まるで絵に描いた餅です。人権保障の建前は現実とは大きくずれている。無罪の推定なんて一種の空論です。むしろ、有罪が推定されている。時差式信号機の事件の右折ドライバーは、一審は無罪でしたが、控訴審で逆転有罪になり、最高裁でも結局有罪になった。県警の交通部長は、刑務所に行かないどころか、処分さえもされなかった。

多くの被害者が最初に直面する苦労は、生活を守ることです。一家の大黒柱を失えば、これからどうやって生活していくのかという悩みに直面します。時差式信号機の自動二輪車の運転者を考えましょう。残されたご遺族にどのくらいの保険金や賠償金が入ったのか、私は知る立場にありませんでしたが、まだ小さいお子さんをかかえた若いお母さんのこれからの長い人生はどうなるのか。どうやって生活していけばよいのか。とりわけ昨今の世の中の動きなどを見れば、不安・懸念を感じるのが当たり前です。

被害者も被告人もどちらも保護されていない。どちらも「冗談じゃない」と言わなければいけない。その被害者と加害者が向かい合わされ、対決させられ、被害者が加害者を非難し、加害者は被害者の前で立ちすくむ。そういう状況にさせられているのが現在の交通事故事件の現場の構図ではないかと、私は感じます。

 

不幸の誕生

日本の交通警察官がどのくらいいるのかご存じでしょうか。いま日本には、30万人近い警察官がいますが、交通事故捜査に当たる警察官の数はたった5,000人です。何十万件という交通事故の捜査に当たる警察官が僅か5,000人、警察官全体の2%もいないのです。その数で事故の真相を究明するなんて、私に言わせれば、無理ですね。これでは適当にやるしかない。交通事故事件の大半を不起訴にするというのも当然と言えば当然です。

事故の真実を解明する態勢がはなはだしく不十分であることが、交通安全の実現とは逆の方向に事態を向かわせている。「体感悪質」を言う前にやることがある。私はそう思います。「危険運転致死傷罪」は、そのような根元的な問いかけとは別の事情と動機に基づいて、不幸にも誕生してしまった。いま、「危険運転致死傷罪」で処罰されている人の数は、年間300件ぐらい、「致死」が50件前後、「傷害」が200件台というところでしょうか。これで、一般の交通事故を含め厳罰対応が格段に進みました。

3 危険運転致死傷罪の構成要件と判決例

危険運転致死傷罪とは

危険運転致死傷罪(刑法第208条の2)にはいくつかの類型があります。まず第1項。「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させて、人を負傷させた者は15年以下の懲役、死亡させると1年以上の有期懲役」。去年の改正で自動二輪車も対象になりました。これが第1類型です。
「進行を制御することが困難な高速度で自動車を走らせて人を死傷させた者も同じ」。これが第2類型。「進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させて、人を死亡させた者」。これが第3類型。

第4類型は、第2項になります。「人や車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、人を死傷させた者」。聞いただけではよくわからない条文です。

第5類型。「赤色信号又はこれに相当する信号」、警察官の手旗信号などもありますね。「赤色信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、人を死傷させた者」。

よく問題になるのは第1類型ですが、それぞれの類型の事件が発生しています。読んだだけではスッとはわからない。修飾語が多くて概念が曖昧です。「正常な運転が困難な状態」とは、どういう状態か。「進行を制御することが困難な高速度」とは、どういう速度か。ただの高速度ではない、進行制御が困難な高速度。制御が「できない」というのでもない、「困難」という速度。どうなると「困難」のカテゴリーに入るのか。「進行を制御する技能を有しない」。自動車教習所で資格を取っただけではだめか、無免を繰り返しても技能を有する人になり得るか。

「車の通行を妨害する目的で」とは。「いま私は妨害しようとしています」なんて叫びながら走る人はいない。状況で判断するしかないとすると、さて。

「赤色信号又はこれに相当する信号を、殊更に無視し」。赤色信号を無視するのは道路交通法違反。赤色信号を「単に無視」するのではなく、「殊更無視」をしなければいけない。赤色信号と知って突破すれば赤無視。すると「殊更無視」とは。

わからない語句、わかりにくい語句が、てんこ盛りです。立法に先立つ審議会の委員や国会議員たちは「これじゃあ、混乱が生じる」とも言わず、すべてを現場に任せてしまった。

 

「福岡3児死亡事件」の地裁判決―「『飲酒の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させた』とはいえない」との判断

2つの事件を通じて、現場報告をします。その一つは、福岡3児死亡事件です。

福岡の海上橋上で追突され、3人のお子さんが車もろとも海に落ちて亡くなった。この事件で、福岡地裁は今年1月、「危険運転致死傷罪」ではなく、「業務上過失致死傷罪」を適用して有罪判決を言い渡した。事件が起きたのが、「自動車運転致死傷罪」の成立前なので、罪名は「業務上過失致死傷罪」になりますね。被告人には「危険運転致死傷罪」は適用されなかった。

新聞やテレビの多くは、「とんでもない判決だ」という報道をしました。私が取材記者に、「当然の結論ではないかと思う」と言ったら、しばらく次の言葉が出なかった方もいました。判決は、「飲酒の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させたとまでは言えない」というものです。検察が控訴して、事件はいま福岡高等裁判所に係属しています。

さて、「飲酒の影響で正常な運転が困難な状態」ですが、いま申し上げたように、これが簡単には説明できない。この法律の宿命、運命です。

「飲酒の影響」を考える上で、とりあえず指標になるのは、飲酒量です。被告人は、現場から逃げてどこかで水を飲んだという。40分ぐらい後の検査で、体内に呼気1リットル中0.25・のアルコールを保留していたようですね。呼気1リットル中0.25・というのは、飲酒量としてはあまり多くない。顔にあまり出ない程度の軽度酩酊状態です。

話が少し横にそれますが、私は、飲酒運転の調査のためにドイツに行ったことがあります。この国では、簡易な飲酒検知機が置いてあるバーが少なくないそうで、飲みながら飲酒量を調べ、限度までは飲むと言うんですね。ドイツは呼気ではなく血中の濃度で保有量を言うので、日本とは単位も数字もちがいます。換算すると、呼気1リットル中の0.4ミリグラムが血液1ミリリットル中の0.8ミリグラムにほぼ相当するとされています。統一前の西独では血液1ミリリットル中に0.8ミリグラムが規制の下限値だったので、バーの客は0.8ミリグラムになったら「ユーバーアハト!」(オーバーエイト!)と言って、飲むのをやめるのだと言われました。本当かどうかわかりませんが、8ミリグラムまではいいとするドイツ人の合理性は、私たちの飲酒運転に関する感覚とは少し違うという気がしましたね。

話を戻しましょう。呼気1リットル中0.25ミリグラムというのは、飲酒量としてあまり多くない。「危険運転致死傷罪」が導入されてから1年間の事件事例を警察庁が集めたデータを基に、呼気中のアルコール濃度のデータを集めてみると、最低が0.3ミリグラム、最高が0.99ミリグラム、平均は0.63ミリグラムほどでした。そのデータと対比すると、この被告人の飲酒量のレベルが高くないことがわかるでしょう。これで「危険運転致死傷罪」が成立するのは、かなりの下戸でもなければ考えにくい。

福岡地裁の判決は、このことだけを根拠にしたわけではなく、被告人の酩酊の程度を種々分析して結論を導いているのですが、結局、「危険運転致死傷罪」の成立を認めなかった。被告人が飲酒していたことは明らかであり、私は、飲酒運転を是認もしませんが、被告人の飲酒運転は「危険運転致死傷罪」の構成要件を満たすものとは言えない。法的な分析や論議は、このように厳密に行うものです。

私がこの事件について申し上げたいことがもう一つあります。海の中道大橋の歩車道の境にはガードレールもガードパイプも設けられておらず、歩道の反対側の橋の欄干は、脆弱な造りでした。本件追突事故の衝突の衝撃はあまり大きくなかったようですが、後ろからドンとぶつけられた車は、歩車道の境に何の障壁もない歩道に簡単に乗り上げ、そして簡単に欄干を突破して海に転落してしまった。

道路が真っ直ぐだから、歩車道の境目にガードレールもガードパイプも設置する必要がないと思ったという弁解には合理性がない。真っ直ぐの道路でも、対向走行車両が中央線を突破してきて、正面衝突を起こす場合がある。その結果、どちらの車もあらぬ方向へ暴走する。町なかにいくらでもある真っ直ぐの道路にも多くガードレールが敷設されている。海の中道大橋では、そういう事故がこれまでになかったのかもしれないけれども、それは単なる偶然だ。実際、この橋の歩車道の境には、事故後にガードレールが敷設されましたね。

ガードレールをご覧になると、結構、歪んでいるのがあるでしょう。あれは不良品の鉄板を使っているからではなく、わざと弱いものを使っているからです。柔らかくすることでショックを吸収させようとしているのです。頑丈につくると、跳ね返されて、対向車線へ飛び出し、とんでもない二次事故が起こりかねない。それを防ぐための安全装置です。安全のためにわざわざガードレールをハンモックのようにやわに造る。ガードパイプも同じです。

歩道の反対側は、海への転落を防止する欄干があった。しかし、造りが弱いものだったように報道されている。歩道の外が畑か何かだったら、さほど深刻に考えなくてもよいでしょうが、橋の欄干は大きな危険を回避、阻止するための決定的な安全装置です。これは何でも頑丈にしておかねばなりません。

ガードレールもガードパイプもなく、欄干は脆弱。どうしてその責任は問題にならないのだろうか。その安全対策の実施責任者も刑事責任を負い、ことによれば刑務所へ行くほどの責任があったのではないか。私は、悲惨な事故を本当に根絶しようと思えば、そういう角度からも問題を考えるべきだと思うのです。

 

「春日井5人死傷事件」の名古屋高裁判決―「赤信号を殊更に無視した」との判断

次に、「春日井5人死傷事件」です。

愛知県の春日井市で起きた交通事故で、去年12月25日に名古屋高等裁判所が言い渡した判決があります。名古屋地裁が2006年7月に言い渡した「業務上過失致死傷」判決の判断を逆転させ、危険運転致死罪で有罪にしたものです。今回の福岡地裁の判決と同様に、地裁は、危険運転致死の成立をいう検察官の主張を認めず、単なる交通事故と判断していたのですが、名古屋高裁はそれをひっくり返したのでした。

私の話を頭のなかでイメージしてください。東西に走る国道と南北に走る県道があります。その交差点で出会い頭の衝突事故が発生しました。小さい子どもさんを乗せて国道を西から東へ走っていた乗用車と、それに交差する県道を北から南に向かって走っていたタクシー、これには自衛隊員の客が5人乗っていたのですが、それが衝突した。国道のほうが赤信号だったのに、お父さんがそこに突っ込んで、交差道路を南進してきたタクシーに激しくぶつかり、タクシー側の4人を死亡させ、怪我もさせ、自車の同乗者である子どもさんも怪我をさせてしまったのでした。

先ほどお話しした第5類型の「赤殊更無視事件」です。このお父さんもいくらか飲酒していたのですが、アルコール保有量が少なくて、第1類型の事件とは判定できず、問題にされたのは「赤信号殊更無視」でした。

1審判決は、「殊更無視」の証拠がないと判断しました。ドライバーは「信号は青だと思っていた」と言い、「赤で入った」とも言っていませんでした。子どもを乗せて、赤信号を無視して突っ込むというのは、確かに考えにくいことではありますね。

事故の起きた交差点の200メートルほど手前に、もう1つ交差点があり、そのまた手前にも信号機の設置されている交差点がありました。お父さんは、2つ手前の交差点の赤信号をクラクションを鳴らして突破している。この被告人はそういうことを平気でやる乱暴なドライバーで、本件交差点もその調子で突破したのだと検察官は主張しました。

二つ手前の交差点でクラクションを鳴らした被告人の弁明は、「子どもがそのとき暴れたので、チャイルドシートを締めようとしたのだ」と言うものでした。子どもの方に手を伸ばしながら交差点に近づき、対面信号が赤だとわかったのが交差点直近だったので、咄嗟の判断でクラクションを鳴らして進入してしまったと。そのときはそういう事情だったけれども、本件事故が発生した交差点に入るときにはクラクションを鳴らしていないし、そもそも信号は青だと思っていたと言うのです。

名古屋地裁は、本件交差点の対面信号を「殊更無視」した証拠はないとして、「業務上過失致死」の責任しか認めませんでした。しかし、名古屋高裁は、昨年末、この判定をひっくり返し、「殊更無視」になると言ったのです。どこで判定が変わったのか、あまりはっきりしません。何をもって「殊更無視」になるとしたのか。これを正確に定義するのは、途方もなくむずかしい。

人を殺そうとするときに、「私はあなたに殺意をもっています」などとわざわざ言う人はまずいません。殺意の有無は、客観的な状況で判断するしかない。一概には言えませんが、身体の枢要部に刃渡りのある刃物を向けて突っ込むのは、殺意のある人のやることだというのが、法律家のなかではだいたい常識になっていると言えるでしょう。客観的にそういう状況だったということを検察官は立証し、弁護人は、そのような状況だったとは言えないとか、状況はそうだったがこういう事情があったのだというようなことを主張し、反対立証をする。そのよう攻防戦が現実に行なわれます。

内心の意思の立証とか、認定というのは、表に見えない事実の証明や判定ですから、そもそも容易ではありません。皆さんは高山の顔を見ているような風をしているけれども、内心は全然別のことを考えている、なんてですね。何を考えているかを客観的事実から判定するというのは、実際にはとてもむずかしいことです。さて、単なる「赤無視」ではなくて、「殊更赤無視」だと認定した名古屋高裁の判断をどう考えるか。

4 交通犯罪に関する当局と司法の対応

法定刑・宣告刑が重くなる傾向

「危険運転致死傷罪」は、刑法の「自動車運転過失致死傷罪」や道路交通法の諸規定とつながりながら、全体として交通犯罪を厳しく処罰する全体的な体系の要(かなめ)の位置におかれています。

法律が定める刑を法定刑、法廷で裁判官が言い渡す刑を宣告刑といいます。殺人の法定刑は「死刑、無期または5年以上の有期の懲役」で、具体的な事件の中で懲役15年を言い渡すとすると、これが宣告刑になります。宣告刑も法定刑の範囲の中でだんだん上がっています。被告人を重く処罰する傾向が顕著です。

 

曖昧な事実認定を容認する傾向

事実認定の判断が曖昧になるのを容認する傾向が強まっています。刑事司法における専門的な判断は、一般常識とはややずれるところ、ずれるときがあり得る。誤解を恐れず言えば、それが私たちの世界では一種の常識と言ってもよいでしょう。

刑事司法は、ときに基本的人権を侵害する。誤った判断で人の自由を侵して刑務所にぶち込み、誤った判断で人を死刑台に送ってしまうというように。だから、その結論を導く判断では、とことん慎重で厳格であることが求められます。一旦その観点を失ったら、刑事司法は恐るべき悪魔の武器になる。私には、この間その怖い「悪魔の武器化」状態が、生まれてきているように思われます。

裁判所にさえ曖昧な判断の傾向を感じるくらいですから、一部のマスコミや市民の犯罪処罰の理解は、私たちが大切にしてきた人権侵害抑止の思想からすると、ほとんど崩壊に近いものがあります。「酒を飲んで事故を起こして逃げる危険な運転者は危険運転致死傷罪に該当すると言えませんか」と迫る記者さんもいます。逃げたかどうかは危険運転致死傷罪の成否に関わりがないと説明しても頭をかしげている。それは私には日常的な体験ですね。

でも、あえて申します。皆さんはいい時期に法律を学ぶことになった。この時代の刑事司法がそのような傾向をはらんでいるのはなぜか。この時代に生きる一人の人間として、どういう姿勢で法律を捉えるべきかをあらためて考えよう。この法律は何のために登場し、現実にどのように使われ、どんな影響を社会に及ぼしているのか。そういうことを具体的に考える素材が転がっている。その真っ只中で自分たちは法律を勉強することになった。法曹を志しているのだったら、なおのことそう考えていただいていいと思います。

5 厳罰化と交通安全の実現

厳罰化は安全への王道か

最後に、厳罰化と交通安全実現の関係について、少しお話をします。

「業務上過失致死傷罪」とか、「自動車運転過失致死傷罪」とか、「危険運転致死傷罪」とかの犯罪を規定した目標の中心にあるのは「交通安全」の実現です。

すべての刑事法の法条には、その法条によって実現したり確保したりしようとする目標があります。それを、私たちは法益という言葉で表現します。法によって守り、実現しようとする利益という趣旨ですね。何かを守るために、その法律がある。今日、議論しているさまざまな法律の法益は基本的に「交通安全」です。「交通安全」を実現するという大きな目標のために存在する。

では交通安全は、「危険運転致死傷罪」や「自動車運転過失致死傷罪」のみによって実現されるのかと言えば、断じてそうではありません。交通事故をなくし、交通安全を実現するという目標のために、さまざまな制度、仕組みが深く結びついています。

 

飲酒運転の抑止と刑の均衡

テレビの番組に出た時に、司会者のタレントさんから、「高山さん、酒を飲んで車を運転したら死刑にしちゃいけないですかね」と聞かれたことがあります。酒を飲んで車を運転したら死刑にしてもよいのでは、と。本気で言っているとは思えないし、そこには今申し上げた市民の犯罪理解の大混乱があるけれども、しかし、実際に、現在の処罰は軽すぎる、もっと重く処罰し、できることなら無期懲役くらいまでの判決はしてもいいんじゃないかというような議論はあちこちで聞かれます。

処罰、処罰、処罰…。どんどん処罰を重くしていく。危険運転致死傷罪の法定刑も当初は15年が最高で、今は20年に上がった。他の刑罰と併合されれば30年になる。

殺人は人を殺す意思をもって人を殺す犯罪です。殺人罪の法定最高刑は死刑ですが、実際に言い渡される刑罰は10数年程度の有期懲役が少なくない。危険な運転をして人を死なせる者に対する刑罰の方が、殺意をもって人を殺す者の刑罰より重くなるなどということも現実に起きています。ペナルティの不均衡、逆転。そのような事態が現実に起きてもいいのだろうか。

 

交通安全実現の科学

 飲酒運転を抑止する方途として、私は、違法運転者の重処罰は一つの方策ではあるけれども、それを最高・中軸の策と考えるのは正しくないと思っています。

人の規範意識に依拠する安全対策は、あくまで、その結果を実現する他の合理的な対策と正しく結合して初めて存在するものです。他の方策とは何か。いろいろありますが、その中軸にあるのは、お酒を飲んだら運転しようとしても車を動かなくすることだと私は考えています。人に頼らない考え方とも言えるし、飲んで運転する人は必ず出てくるという性悪説に立つと言ってもよい。実際、飲酒運転者のかなりは、アルコール依存傾向の人だという報告もあるようです。

ハードの側からの対応を決定的に重視すべきだと思うのです。欧米には、アルコールを体内に保有したら車が動かなくなる方式が現に採用されている国や州があります。私の説は決して机上の空論ではありません。酒を飲まされて自制心がゆるんでしまった人でも、アルコール依存傾向の人でも、つまり事情・状況はどうあれ、車が動かなければ飲酒運転は起こりえず、飲酒に起因する事故は起きようがないのです。

 

「ドライバーの自覚」を軸におくな

 この国の飲酒事故対策は、どうしてそういう視点に立たないのでしょうか。それは、あくまでもドライバーの意識を軸にして交通安全を実現するという思想から脱却できないためです。日本の交通安全政策の心棒に、そのような考え方が長らく鎮座ましましている。ドライバーに対する規制、ドライバーの自覚が安全対策の中核に置かれ、この状況はいまでも依然として変わっていない。

「乗るなら飲むな。飲んだら乗るな」という交通標語があります。それ自体は間違いではないが、それ一辺倒でよいのかと言えば、それは違う。ドライバーを甘やかすな、ドライバーの注意が決定的なのだという考え方は、私に言わせれば一種の無責任な見方でさえある。そんなことを言っているだけだと、また必ず悲惨な事故が起こりますよ、いったいどうするつもりですかと言いたくなります。

「飲酒したら動かない車と言ったって、簡単には作れない」とか、「検知装置は容易にすり抜けられる」とかの異論を聞くこともあります。しかし、万全でなければ、徐々に改善して行けばよいでしょう。早くから研究、検討を開始していれば、今ごろは「万全な装置」が開発できていたはずだとも言いたいし、少なくとも「万全な装置」が開発できないならやらないほうがましということにはならないでしょう。

 

本気で考えるときが来た

 本気で交通安全を実現しようと思うなら、ありとあらゆる方策に、積極、果敢に取り組むべきです。及び腰だったメーカーも、一昨年の福岡3児死亡事件の後からようやく重い腰を上げています。飲酒運転の抑止に限らず、交通安全一般、交通危険の排除について、対策の基本は科学的、合理的になるべきであり、総じて運転者依存にしない考え方に向かうべきです。見通しの悪い道路の先にある危険をいち早く把握してドライバーに知らせるシステムなど、交通安全対策の研究は、最近急速に進み、ナビゲータと結びついて実際にも使われ始めています。ドライブレコーダを登載した車も最近は増えました。いずれも交通安全の実現に向けた大きな努力の一つです。

ドライバーだけに頼らないという思想を強めることが大切です。「精神一到何事か成らざらん」などという儒教思想で問題が解決できるののなら、保険なんか入らなくてもよいことになる。気持ちや心情だけでは済まさないところに、科学の存在意義がある。さまざまな対策が正しく総合的に結びついて交通安全は実現されるものです。厳罰、厳罰と厳罰化を100回も唱えると安全が実現できるのなら、私が唱えてあげようと言いたいですね。

私が厳罰化論が問題だと思うとりわけ大きい理由に、それを強調することが他の方策を講じることを否定するところまで進む危険があるということがあります。こういうことを言う方がいます。「信号機が見えやすいようにし過ぎると、ドライバーが信号をよく見なくなる。信号機の視認性を高めるよりはドライバーの自覚を高めた方がよい」と。また、「車の安全化や救急医療が向上すると、人はもっと乱暴に運転してもよいと思うことになる。ドライバーを甘やかしてはならない」などと。

高速道路の長距離運転を2日もかけて、眠らず、休まず続けざるを得ないというような労働環境を改善することは、交通事故を極小化させる鍵の一つです。車や交通安全施設の改善や救急医療の抜本的な充実なども極めて重要です。それらの諸施策に並び、その一つとして、「ドライバーは注意して運転をしよう」という安全対策があるはずです。「運転者の注意」という対策の立ち位置はその辺のはずです。その安全対策の全体構造が、交通安全を実現する王道だと思います。

 

むすび

本日は、危険運転致死傷事件を通して、交通安全の実現という課題を考えました。また、社会が私たち法律家や法律を学ぶ学徒に何を求めているのかを考えました。交通安全と処罰の関係を正しく理解する思考とは何か、私が40年間、交通事故事件に関わり、多くの被害者の方々にお会いしてきた中で感じてきたささやかな考察のささやかな報告です。

今日の話が皆さんの心に触れるものになったのかどうか、よくわかりません。皆さんにまたお会いする機会もあるでしょう。「あれから交通事故というものを少し突っ込んで考えるようになりました」と言ってくださったら、私はこんなにうれしいことはありません。そういう出会いがまたあることを祈ります。

拙い話をお聞きいただいたことに心から感謝を申しあげて、私の話をこれで終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。

(了)

法律相談・お問合せ

▲ページ上部に戻る