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交通事故報道を問う

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交通事故報道を問う【交通事故報道】

■被害者の声を聞け

交通事故の刑事責任に関する論議がかつてなく高まっている。資料の収集や分析を尽くさない捜査当局や保険会社が、責任の有無、程度の判断を間違えていると指摘される例が急速に増えた。交通事故死の刑事責任追及に関するプレスキャンペーンもかつてない高まりを見せている。

一昨年8月に刊行された『交通死』(岩波新書)は、交通事故で肉親を失った遺族の慟哭の書である。高校の先生や生徒に交通安全を語ることの多い私は、『交通死』を必読の書と紹介する。大学の経済学の先生の手になるこの書は、理論的な考究の部分などはやや難しいが、その部分を含めわが子を交通事故で奪われた親の辛さや深い思いが行間に溢れている。

交通安全を考えることはすなわち人のいのちを思うことだ。不注意が引き起こす取り返しのつかない悲惨な結果を考え、また君たちの死が君たちの家族にもたらす苦しみを考えてほしいと訴える。どこかの弁護士が、この本の著者に、「感情的に過ぎ、学者の書とも思えぬ。」というような書評を送ったと聞いた。詳しい事情は知らぬが、同職にある者として恥ずかしく思った。

往時より減ったとは言え、交通事故の死者の数は年間1万人近くに達し、事故後24時間以後の死者を加えればさらに2割近くも増える。警察署や交番には、いつも「本日の死者何人」などと、いかにも無機質な数字が並ぶ。500人乗りのジャンボジェット機が1年間に20機墜落したら人々はいったい何と言うだろう。1機の墜落でさえ操縦士の不注意と言って涼しい顔をしてはいられない。われわれは交通事故に関していつからかひどく鈍感にさせられている。

そのことを思うにつけ、交通事故被害への関心の強化を求める声は、新しい何かを生み出す予兆に思える。いや、そうであってほしいと思う。交通事故の被害にもっと目を向け、被害者の声にもっと耳を傾け、追及すべき加害責任を厳しく追及することを、交通安全に関わるあらゆる者があらためて決意しなければならないと思う。

■報道に感じるある種の偏向

そのように考える私であるが、その私が、この間の交通事故死の刑事責任追及に関するプレス中心の一種のキャンペーンには、いささか素直に受け入れがたいと感じるところがある。誤解をおそれずこの際述べてみたい。交通事故における過失の存否は、本来、ピンセットで薄皮を剥ぐように、科学的な分析を尽くし、事案の真相を究明して判定する性質のものだ。大雑把な論評や思い込みに固まった意見、憤懣をぶちまけるだけの論議は、事故の真相解明や法的責任の追及に役立たぬばかりか、阻害することにさえつながりかねない。

よく登場するのは、「加害者の人権は保護されているのに、被害者の人権は軽視されている」というような対比的論議の傾向である。事故加害者と目される者の刑事責任の場面における国家の保護と事故被害者に対する公的保護を同一平面で比べ、どちらの保護がより手厚いかを比較すること自体、無意味である。憲法や刑事訴訟法で保障されているはずの刑事基本権は現場では原則と例外が逆転し、これ以上ないほどに空洞化している。弁護士や刑事法研究者は、刑事捜査や裁判の現場に、本来の人権保障が実現されていないことをかねてから強く指摘している。被害者の保護も被疑者被告人の保護もともにまるっきり手薄なのだ。

このときに、前者を強調しようとするあまりに後者が好ましい状況にあるかのように描き出すことは、そうでなくとも憂うべき刑事人権の現状の改革をさらに遅らせることにつながりかねない。25万人の日本警察のなかで、交通捜査専門警察官は僅か4~5000人。信じがたい少人数である。交通検察も十分な体制とはとても言えない。これでは年間80万件を越える業務上過失致死傷事件に満足に対処できないのは当然とも言えるのである。

問題の第2は、報道のあり方が交通事故の責任に関する科学的で合理的な思考を阻害し、論議の質を薄っぺらなものにする危険である。対面信号が赤に変わったので交差点内待機中の乗用車が右折行動に入ったとき、対向車線を青の対面信号に従い交差点に向かって直進してくる自動二輪車を例に挙げてみる。両車両は交差点内で激突し、自動二輪車のライダーは死亡した。この信号機は時差式信号機だったのに、県警は「時差式」の表示を怠っていた。

その場合に、この事故の加害者は、乗用車のドライバーか、表示を怠った県警か。遺族は、何と言っても肉親の死に直接の関わりを持つドライバーこそが加害者だと考えがちである。ドライバーは遺族の目前にいる事故関与者だから、心情としては無理もない。しかしその理解が科学的合理性を伴うものかどうかは別の問題だ。裁判所がドライバーに無罪の判決を言い渡すことも当然ありうるのである。

■事故の責任を本当に負うのは誰か

事故の責任の構造をドライバーと被害者の間でのみ捉えようとするのは、捜査当局の伝統的な考え方である。事故死者が史上最高を記録した1970年代に、交通検察の高官は、車が持つ運動エネルギーは人のそれの2000〇倍になるとして、ドライバーは人の2000倍の注意をもって運転しなければならぬと言った。ドライバーの注意喚起を限りなく求めることで安全を実現させようとする「唯注意主義」である。今回の報道キャンペーン全体の通底する認識に、私はその復古再来を感じる。

ドライバーの責任に収斂ざせて終わりとする理屈は、日本の道路交通の安全対策をどれだけ遅らせてきたことだろう。交通安全の実現に責任を負う人々は、道路の安全化、車両の安全化、安全施設の充実、管制システムの合理化、救急医療体制の充実、疲労運転の原因の除去、交通事故工学の研究の強化など、事故をなくし、減らし、発生しても結果をより小さいものにする努力をどれだけしてきたか。ドライバーの責任追及ももちろん重要だが、ひたずらドライバーの責任のみを考えるのは、安全対策に責任を負う当事者を免責するだけになりかねない。

今回のドライバー重責論がこの傾向に拍車をかける危険を私は見逃しえない。加害者の責任は厳しく問われるべきであるが、そこで責任を負う(あるいは主要な責任を負う)者は誰かという点に関する厳密な分析を抜きにした論議は、空疎に思われ、にわかに与しえないのである 。

(月刊誌「世界」 1999年9月号)

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