「さあ、裁判員制度は廃止だ」
(09.2.14 水戸市男女文化センター びよんど)
ごあいさつ
みなさん、こんにちは。随分、きちっと紹介していただいて、緊張の極致であります(笑)
今日は、良い天気になってよかったです。講演日より、そんな日よりはないのですけれど(笑)、暖かくて偕楽園の梅なんかも開いちゃうんじゃないかなって、こういう話は司会の方がおっしゃる言葉で、講演をする私はもう少し、キリッとした話をしなきゃいけないのですが(笑)
裁判員制度は怖いという話がずっと続きました。怖い話をしに参りました。
1時間の時間を頂戴しました。その後、質問の時間を1時間作ってくださっていますので、みなさんと一緒に裁判員制度の問題について考える2時間という気持ちで参っております。よろしくお願い致します。。
今の時代と政治
新聞を見てもテレビを見ても思いますけれど、麻生内閣ガタガタですね。自民党もガタガタ、政治全体がガタガタ。
麻生さんは、郵政民営化に反対だったそうですね。で、小泉さんが怒った。
「オレがお前を育てたんじゃないか」と。あの人の力で首相になったような人ですよ、麻生さんは。小泉さんに恩返しをしなくちゃいけない関係にあるのです。
小泉さんも小泉さんで、今度の2兆円の定額給付金の財源を確保する第2次補正予算関連法案について、「3分の2を使って再可決するほどの価値はない」と言ったというので、大問題になっていますが。その前の衆議院の議決では賛成に手を上げていたんでしょう。何を言っているのかわからない人たちですね。だから、小泉チルドレンはどうするんだという話が出ている。
でも、麻生さん前には、何とかさんがいて、その前には何とかさんがいたでしょう(笑)。
もうどうなっちゃっているのという感じですね。
能力のある人、ない人という話を超えて、日本の政治の有り様が、おそらくみなさんがこの世に生を受けてから今日までの間に、これほど惨憺たる状態、骨格そのものが崩れるようなそういう事態になったということはなかったと思います。
そういう歴史の瞬間に私たちは生きている。そのことを感じてよい状況が日々の新聞の紙面に、テレビの画面に現れていると私は思います。
ソマリアに日本の自衛隊が行く。ソマリアってどこだっけとわからないくらい遠い国、遠い海。そのソマリアに海賊が出る。なんとかしなくちゃいけない。多くの国がそこに軍隊を派遣している。
海賊というのは、窃盗なんですね。強盗かもしれない。
でも、裁判員が登場するような極悪非道な事件ではないのです。ソマリアの海賊というのは、人を殺さないんですね。それは、海賊は人を殺しちゃいけないという法律があるからではなくて、人を殺すことが目的ではなく、財宝を奪うことが目的だからです。
なぜ、こう見てきたように断定的に言うのか。見てきた訳じゃないのですが(笑)
ソマリアというのは、国自体がほとんど崩壊状態にあって、人々が生活できない状況の中で、生きる術として通りすがりの人からお金を奪うという行動をしている国です。
内戦が続いて生きていけない。人を殺すより財宝を取って金に換えて生活している。生活の有り様です。先ほど、玄侑宗久さんがおっしゃったじゃないですか。義賊かもしれないのです、もしかすると。お父さんがどこからかお金を持ってきてくれる。そこにはそれなりの家庭があるかもしれない。
そんなことはどうでもよい。ソマリア沖に日本の軍隊をなんだってかんだって派遣したいんです。窃盗や強盗、裁判員が参加することがないくらい「軽微な犯罪」に日本が軍隊を派遣しようというのです。
イヤ、人に泥棒を勧めている訳ではないのですが(笑)、はっきり言ってその程度の話なのです。
しかし、この機会になんとしても自衛隊を派遣したい。もう死に体になっている麻生政権が、自衛隊を派遣することにこれだけ必死になっているということです。
「もうオレはそんなことは考えられない。オレ自身がどうしていいのか、わからないのだから」とは言わないのです。こういう状況でも、軍隊を派遣することには、これほどご執心なのです。すごい時代であるし、すごい事態だと私は思います。
裁判員候補者名簿登載への反発
さあ、その麻生惨憺内閣が、昨年11月末、最高裁名で裁判員候補者名簿の通知を出した。裁判員になると、呼び出されるのは地方裁判所からです。先ほど、丹下昌子先生がおっしゃったように、水戸地方裁判所から呼び出しが来るのです。しかし、「あなたは裁判員候補者になった」という通知は、水戸地方裁判所から送られたのではないのです。最高裁が送ってきた。最高裁判所と書かれた大きな封筒です。この権威主義。
通知は、最高裁から来たんだぞということになる。思い知らせる効果、「へへぇー」という言葉を期待しているのです(笑)。
期待したけど、そうはならなかったのですね。
通知を受け取った30万の人たちは総反発です。「勝手に名前なんか載せるな」と、そういって何万の人たちが最高裁へ送り返した。送り返すと裁判員にならないで済む訳ではないのですが、送り返した。裁判員法というのは、国家権力が一方的に名簿に名前を載せちゃうということができる法律なのです。じわじわとボディブローのように、「オレは裁判員にならなくちゃいけない」「私は裁判員にならなければいけないのだわ」という気持ちにさせていくパフォーマンスなのです。だから送り返してもダメなのです。
ダメなんだけど送り返した。通知の中は、マークシートみたいなもので記載するようになっているのだけれど、どう書いても断れないようになっている。それでも「やりたくない」と書いた人がいる。
裁判員候補者名簿に名前を登載されたことに納得できない人が12月20日、実名を公表して記者会見を行った。
その記者会見自体が事件になった。なぜ、事件になるかというと、裁判員や裁判員候補者になった人は自分がなったということを不特定多数の人に言ってはいけないことになっています。「秘密にしろ」というのですよ。呼び出されたことを。
なぜか。危害が加えられるとまずいからです。危害が加えられる原因を作っておいて、「お前は人にいうな。危害が加えられるおそれがあるから」。どっか、話の筋道がおかしくないか。こう私などは思うが。
「何人も裁判員を特定できる情報を公にしてはならない」
この「何人も」は「その本人も含む」と最高裁は言っているのです。
こんなバカな話があるか。最高裁もこれはやりすぎたと思ったのでしょう。
夫婦、家族、親しい友人にはよろしいと言うのです(笑)。
さあ、みなさん、親しい友人と親しくない友人とどうやって分けるのでしょう(笑)。
最高裁はそこを判断する能力があるらしいのです(笑)。昨日は親しかったけど、今日は嫌いになったとなればどうする(笑)。真面目な話、滅茶苦茶です。親しい人にはいい。その人が親しい人にもいい。でも最初の人は後の人とは親しくない関係だ。友だちの友だちはアルカイダだった法務大臣がいたけど(笑)。ドンドン伝わっていったらどこへ行ってしまうんだ(笑)。
こういう訳で、候補者名簿に載せられたのは納得できないと名乗り出た人がいる。みんなに言えないことなのに名乗り出ることをカミングアウトという言葉を使います。
マスコミもそれを報道することができない。なぜかというと、「マスコミも特定できることを報道しちゃいけない」と最高裁から言われているからです。マスコミも「冗談じゃない。ふざけるな最高裁」と言えずにオドオドしている。
そのマスコミがカミングアウトした人たちに、カミングアウトって余りいい言葉じゃないので使いたくないのですが、「自分は構わない」と言っちゃった人を写真撮影しました。
記者会見にはテレビカメラのクルーも入ったので、放送を見ました。
すると顔とかネームプレートにもモザイクがかかっている。テレビ局もつらい(笑)。音声も変えてありました。
情けないマスコミ。「裁判員制度というのはこういうところで、おかしいことがわかります」となぜ言えない。
でも、みなさん、8割の人が消極・納得できないと言っているのです。
私はもう老後は静かに送りたい。裁判所なんかに行きたくない。大体、広告なんかするお金があるなら、裁判所に呼び出して日当1万円を払うなら、そのお金をどうしても生活できない人のため、福祉として使ってもらいたい。そうしたら、犯罪発生件数も減るだろう。そうなれば、私たちが登場する必要性もなくなるんじゃないか。
このように名乗った人がおっしゃっていました。
本当にそのとおりだと思います。
犯罪の発生する原因が社会の貧困化・困窮化にもある。
秋葉原の事件を起こした青年は、トヨタ系下請けの派遣会社で働いていて、クビを切られるんじゃないかと思った。まだ、クビは切られていなかったのだけれど、おそらく事件を起こさなくても、今の状態ではクビを切られていたでしょう。
このような状況の中に今があり、このような状況の中で裁判員制度が登場してきた。
裁判員制度とはどういう制度か
さあ、裁判員制度の中身について少し話を進めましょう。
実は、今日、1時間頂戴しましたが、始まりが何時何分だったかちゃんと覚えていない高山(笑)。2時27、28分ころに始まったということにしといて下さい。従って3時27、28分ころには一応終わります。
裁判員制度とはどういう制度なのかということを簡単に説明します。
20歳以上の人がプロの裁判官と一緒に審理をする。
重大な事件だけを行う。強盗や窃盗はやらない。重大な人の生命にかかわる事件だけをやる。どんな事件かは今、黒板に書いてもらっています。
日本では、毎年、法廷が開かれる事件は10万件くらいあるのですが、そのうち3千件、10万分の3千というのは3%ですね。一番、悪逆非道、悪辣というか、その上から3%を拾って裁判員はかかわる。
自分はやっているとかやっていないとか、自白事件・否認事件を問わない。
量刑にもかかわる。どのくらいの刑を科すのかという判断にも裁判員はかかわる。
多数決で結論を出す。
裁判員に就任することは原則断れない。父母の葬儀なら出席しても良いが、おばあさん、おじいさんの葬儀なら裁判員を優先しなければならない。お兄さん、お姉さんの場合も裁判員を優先する。
被告人は裁判員の参加する裁判は一切断れない。裁判員と被告人はガチッと対峙する構図になっている。
裁判員裁判はたいてい3日から5日で終わらせる。月曜日に始まった裁判は水曜か金曜には判決を出す。それを超える事件は1割しかないと最高裁がいっている。
1人の被告がいくつもの事件を起こしていたらそれは無理だろう。ここで人を殺した。こっちで強盗殺人をやった。3日や5日で無理だろう。無理じゃないんです。手品みたいなことをやる。
どうするかというと、A事件、B事件、C事件があった。A事件にかかわる裁判員6人、B事件にかかわる裁判員6人、C事件にかかわる裁判員6人を別々に選ぶ。そして、今週A事件、来週B事件、再来週C事件の審理をすることにして、裁判官は全部同じ裁判官が担当する。
だから裁判員はやはり3日か5日でよいということになる。
どこが手品か。
C事件を担当した裁判員が最終判決を出す。AやBがどういう判断だったのかを踏まえて判断をする。Cの裁判員はどうやって判断するのか。裁判員は裁判官から伝え聞いて判断する。「Aはこうだったんですよ。Bはこうだったのですよ」と。それを聞いてC事件の裁判員は「あ~そういうことだったのですか。じゃあ、こうしましょうか」と判断する。
そんなことできるのか、実際に。
裁判員が参加する裁判は一審だけ。だから裁判員が参加して、とんでもない判決が出たと判断した検察官は控訴することができる。控訴審の裁判所は、水戸なら東京高等裁判所ということになるのですが、そこはプロの裁判官だけで審理を行う。
だから、仮に、「あの被告人は無罪だ」という市民が多かったために、渋々裁判官が負けて、無罪になっちゃったなんていう事件があると、検察官が控訴してひっくり返しちゃうということが可能なのです。
だいたい判決に多数決という論理を持ち込んだからとんでもないことが起こる。
先ほど、多数決で有罪か無罪かを決めると言いました。そして量刑にもかかわると言ったでしょう。
どういうことが起きるか。
6対3とか、5対4で有罪になったとするでしょう。数の話ですが、原則、3人のプロと裁判員9人という構造になっています。
だから3人、4人が無罪だと言ったけれど、6人、5人が有罪だと主張したために被告人は有罪となった。さあ、有罪と決まりました。そうすると、今度は、量刑の判断に入ります。
死刑か無期か、懲役20年か、それを議論する。
裁判員が「私は先ほど、無罪に手を上げた人間です。被告人は無罪だと思っているので、量刑の判断はできません」と言う。しかし、それは認められない。「多数決で有罪と決まったので、死刑か、無期か、懲役何年か言いなさい」と言われる。「無理です」と言っても、「イエ、意見を言うことは裁判員法で義務づけられています」と言われる。
だから、自分は無罪だと思っている人も、死刑判決のグループの一員ということになるのです。
陪審制とは全く違う
みなさん、裁判員制度というと陪審のようなものと思っていらっしゃいませんか。陪審とは全然違います。
その話をする前にこの黒板を見てください。難しい漢字が並んでいるわけですが、これが裁判員のかかわる事件です。強盗致傷、殺人、現住建造物等放火、強姦致傷、傷害致死、強制わいせつ致死傷、強盗強姦と、見るからに恐ろしげでしょう。
仲間由紀恵さん、長谷川京子さん、上戸彩さんとか、女優さんが嬉しそうな顔をして時々、広告に出ている。だけど、嬉しそうな顔をできるものではないですよ。字そのものが。命にかかわる事件です。凄絶な法廷が出現するそういう事件ばかりです。
陪審のようなものだと思っている人が結構多いのですが、しかし、多くの方は、陪審に詳しくないかも知れない。映画とかでご覧になっているかも知れない。「怒れる12人の男」が有名な映画ですが。
陪審と裁判員制度は全然違います。共通するところ、似ているところは、裁判所に行って裁判にかかわるというところだけです。
具体的に言いましょう。
陪審は素人だけでやります。12人でやる。プロと素人が一緒にやることはない。
一緒にやるということは、生涯の仕事として裁判官を選んだ人と、別に行きたくもないのに呼び出されたため、生まれて初めて裁判所へ行った知識もない人との間に、対等・平等の対話が成立すると思うかということです。
陪審というのは、被告人が無罪を主張したときだけ開かれる。O・J・シンプソンもマイケル・ジャクソンも「私は無罪だ」と言ったから陪審裁判になった。
有罪、つまり罪を認めている裁判になると、淡々と職業裁判官が審理するのです。
日本は「私がやりました」と言っても裁判員と裁判官が一緒に審理をする。
陪審というのは原則として全員一致が必要なのです。全員が有罪に納得して初めて有罪になるのです。1人でも「私は有罪ではない」と言えば、「評決不能」になります。みんなが「無罪だ」と言ったら「無罪」になるという区分けになっています。
有罪というのは全員一致、単純多数決などという理屈はないのです。
「怒れる12人の男」では、最初、1人だけが無罪だと思い、残る11人は有罪だと思った。彼が説得する中で無罪派が増えていき、最後は全員が無罪だと思って、無罪判決になるというドラマで、これは無罪の感動をみんなで味わおうという話です。しかし、裁判構造上は彼が説得しなくても「評決不能」で有罪にはならずに終わったのですね。
裁判員裁判では、裁判員の辞退がほとんど認められないと言いましたが、陪審では多くの市民が事実上断っている。O・J・シンプソンの裁判では、断った人が千人を超えました。アメリカでは、「陪審員とは」という定義で、「断るのが下手だった人のことを言う」とあります(笑)。
また、裁判員裁判では被告人は裁判員の参加を絶対に断れませんが、陪審では被告人は断れる。O・J・シンプソンは、断ろうかどうしようか悩んで、結局、受けたという経緯がありますが、裁判員制度の被告人は絶対に断れない。
3日で終わらせる、5日で終わらせる、1週間以上かかるのは1割しかないというような発想は、陪審の世界では全くありません。O・J・シンプソンの裁判は10カ月かかった。10カ月間、陪審員はホテルに缶詰になった。家に帰られないのですよ。週末は家族を呼んでいいことにしてくれという申しいれがあり、認められたという話がある。国を離れてイラクに行って、1年も2年も帰られないという国ですから、ホテルに缶詰になって命が奪われないなら、まあ良いかということなのでしょう。陪審のある国は徴兵制があるという議論もあります。
裁判が長くなるのはいけない事だという考え方は、陪審の世界では全くないのです。
無茶苦茶違うでしょう。陪審と裁判員、似通っているっていう宣伝が盛んにあって、裁判員制度も市民参加だから良いことじゃないかなんて思ったりしてね。でも、実相は全然違う。そのことは知っていただきたいと思います。
裁判員制度導入の目的
裁判員制度をなぜ実施するのか。みなさんの疑問は、その一点に集中するのではないでしょうか。
消費税は下げてくれとか、なくしてくれということは毎日のように思うけれど、裁判員をやってみたいなんて思ったことは一度もない。なぜ、やろうとするのか。
裁判員制度というのは、今から5年前に法律ができました。その裁判員法という法律で、裁判員制度を導入すべきといったのは、政府に置かれた審議会。
だいたい、審議会というのは怪しげなものが山ほどありますが、その一つで司法制度改革審議会というのが、小泉内閣が発足したときに答申したのが「裁判員制度をぜひ、採用してほしい」ということでした。
答申したのは2001年なのですが、2004年までの間に準備して、裁判員法が成立した。自民党から共産党まで全党一致で。
裁判員法を立案した裁判官が「解説・裁判員法」という本を出した。その裁判官は今、東京地方裁判所の所長をしていますが。
その本の中にこのように書かれている。
「現在の刑事裁判は、基本的に機能しているという評価を前提としている」
つまり、今の日本の裁判はきちんと行われているという考え方なのです。日本の裁判がおかしいから直すためにやる制度ではない。
「職業裁判官による刑事裁判を否定的に評価する制度ではない」
プロの裁判官にやらせておくと、何をやるかわからないから、オレたちが参加して、おかしくさせないようにしようという制度ではない。
「陪審に進む前段階と捉えることはできない」
いろいろな政治状況があって、陪審として全部を市民に担わせることはできなかった。6対3だが、6人の市民がいる。これで陪審に進んでいく一里塚なのだという、こういう議論が行われているけれども、これは間違いである。
だんだん、陰々滅々としてくるでしょう。
「裁判の正統性に対する国民の信頼を高めることを目的とする」
正統性というのは、自民党や共産党などの政党ではなく、由緒正しいとか歴史と伝統があるという正統です。
裁判が由緒正しく歴史があるということを国民に信頼してもらうために導入するんだというのです。
刑事裁判がとんでもなくて、それでひどい思いをしている。そういう事件はあります。鹿児島県の志布志公職選挙法違反事件であるとか、富山の氷見といううどんの美味しいところであった、イヤ、うどんの話はどうでもよい、横に置いといて(笑)。女性暴行事件で有罪になって、刑務所にぶち込まれてね。後から真犯人が出てきた。検察官も裁判官も顔色なしですよ。
死刑判決が出て、これが確定し死刑台に送られるところを生還した。生きて帰れたという事件が1980年代、10年間に4件もあった。一審、二審、最高裁、すべての裁判官が「被告人は死刑が妥当である」と言った。それが無罪であるということになった。
どこに正統性がある。どこが由緒正しい。冗談じゃないと私は思う。
でも「そういう考え方を全く取っていない」と、裁判員法の立案にかかわった裁判官が法律の解説書の中で書いている。
女優さんを背景にした新聞の全面広告が何度でも掲載される。見たことがある人、いらっしゃるでしょう。女優さんはみんな、嬉しそうな顔をしてね。そこに書かれている言葉がある。なんて書かれているか。
「判決や刑罰決定までの過程を体験・理解し、犯罪がどのように起こるのかを考えるきっかけを作ることで、安心してくらせる社会に何が必要かを自分のこととして考える」
安心して暮らせる社会にするために、自分がどう行動したらよいかを考える。
「昨日までの自分とは違う自分になる」と書いてある(笑)。
今、笑った人は人格を改造してもらわなきゃいかん(笑)。
だって、これまでそんなこと考えてこなかったでしょう。自堕落な生活をしていたじゃないですか(笑)。自分の小さな幸せだけを考えて(笑)。世の中を正しい社会にしていこうということを、朝も昼も晩も考える人間じゃなかったでしょう。そうなってもらいたいと言っているのですよ。
裁判員を体験することによって、昨日までとは違う人間になる。
セーラー服を着た女学生とか野球少年がバットを握っているとか、そういう写真を背景にした未成年者向けの裁判員制度宣伝のポスターがある。ところで、みなさん、新聞の全面広告とかポスターとかいっても全部、税金で作られているのですよ。本当に冗談じゃないという話ですね。
ここに何が書いてあるか。
「僕が20歳になるころ、裁判が変わる。いろんな犯罪を自分たちの問題だって思えるかも知れない。自分の経験と知識を裁判に活かす」
少年の知識と経験を裁判に活かすってどんな経験か。「少年院に行ってきた経験じゃないか」って言った人がいるけど(笑)。
一人ひとりがこの社会の治安を守るという自覚を持ってほしい。
この社会の治安は乱れているのです。乱れていますよ。そりゃね。みんながもっと緊張してもらいたいのです。日々、緊張してね。そして、「この社会をおかしくしたのは自分だ」「この社会を正しく直させるのも自分だ」と、そういう風に思ってもらいたい。
最高検察庁の総務部長だった人が新聞の取材に応えて、こういうことを言っている。
「被告人をどう処罰するかを考え、今までは新聞やテレビで触れるだけだった国民が、直接、事件に触れ、判断することで子どものしつけや教育にも活きてくる」
「お前、そんなことをすると懲役12年ですよ」(笑)「いや~、懲役15年だろ」ってね(笑)。
そういう夫婦の会話がその家庭のしつけや教育に活きてきて(笑)、結局、社会の治安をよくすることになる。いや~、ホント、みなさん、笑ってくださるからホッとしますけどね(笑)。
でも、こういうこと全部、私、誇張して言ってないんですよ(笑)。書いてあることを読んでいるだけですね。こういう風に言われているんです、裁判員制度については。
ここで3分の2の時間が経過しました。ちょっと誤算があって、段々、スピードを上げていく(笑)。
凄絶な法廷へ投げ込まれる
今月(2月)18日、あっ、すぐですね。東京江東区のマンションで、すぐそばの部屋に住む若い女性を自分の部屋に引っ張り込んで、殺して遺体をバラバラにしたという事件の判決が出ます。
1月13日に審理が始まって、2月18日に判決、開かれた法廷は中飛び飛び、連続ではなくて7日間、裁判員制度が施行になったことを睨んだ審理が行われることになった。
この事件では、被告人は、殺人をしたことも遺体をバラバラにしたことも全部認めています。いわゆる自白事件、認めている事件です。殺人と死体損壊罪という事件です。
認めている事件だけれども、法廷は7回開かれた。プロの裁判官だけで審理をしている。今だから当たり前ですけれど。認めている事件をプロで7回、素人の市民のみなさんが参加して3日でできるのか。
そして、あの凄絶な法廷の状況をどう考えるのかという問題がある。
新聞やテレビでも報道されたけれど、遺体をバラバラにしたプロセスを喋らせるとか、大きな画面を使って、身体をバラバラにした様子を、マネキンを使って再現させて、切った部分を赤黒く塗って見せたとか、バラバラにした骨を出す、肉片を出す。それを見た遺族が号泣して退廷した。他の人も倒れた。
被害者1人を死亡させただけではなかなか死刑にならないという判例の実情がある。だから、人1人しか死亡していないけれども、被告人のやったことは途方もないことだということを印象づけようという狙いが検察官にはあった。
実際、検察官はこの問題になった法廷で死刑を求刑しましたから。
人1人でも死刑を求刑しようという魂胆があり、極めてどぎつい演出がなされたたということはある。
その要素は差し引くとしても、実際の刑事事件の法廷というのは凄絶なものですよ。
当たり前です。だって、事実は、殺人であり、強盗致傷であり、強盗殺人であり、嬉しそうな顔をして、浮かれ気分でやれるような事件は1件もないのです。
私は、道路交通の事件を多く扱っていますが、「罰金5万円払え」というような事件だって、るんるん気分で法廷に来る人は1人もいません。「納得ができない」「なぜ、こんな罪に自分が問われるのだ」という怒りで行くのです。
被害者だってそうです。
「今日は、裁判の日だ」なんて、嬉しくて行く人、だれがいますか。
それがこういう重大事件になったら法廷は、それはみなさんの予想をはるかに超える。
私たちは、プロの法律家であるという、ただその1点で、責任があるから、画像でも言葉でも眼光紙背に徹するくらい見ますけれど、それは自分たちに科せられた責任がそうさせている。1人の市民として耐えられるかというと、耐えられないことです。
法律家を生涯の職業として選んだ責任、その1点が私たちを支えている。それは、裁判官も検察官も弁護人も同じです。
みなさん方は、別にそんなことをやろうと思っていないから、法律家になっていない。
それなのになぜ、そういう人たちが、このような壮絶なシーンに直面しなければいけないのか。そして、短時間に結論を出さなければならないのか。
短期間裁判の宿命
人の人生を決める。もしかしたら、その人を死刑台に送るかもしれない。一生刑務所に閉じこめておくことになるかも知れない。だから慎重に考えなければならないということは、分かりますよね。
「そんな奴は死刑だ」って簡単に言ってはいけないということは分かりますよね。
当然でしょう。そういうことをかつてやったものだから。
近代以前の悪代官とか領主だとかは、一瞬にして判決を下してしまう。
「この印籠が目に入らぬか」とバッと結論を出してしまう人がいましたね(笑)。
丁寧に審理しなければ真実は分からない。そういう考えを吹っ飛ばす。
広島でペルー人が小学生の女の子を死亡させたという事件がありました。
あの事件で、広島地裁は非常に短期間で結論を出した。短期間といっても2カ月間要した。3日でも5日でもなく、2カ月間。
それでも、このペルー人がどこで女の子を殺したのかということを、裁判所は明らかにできなかった。判決文には「部屋の中もしくは部屋の外」となっている。「部屋の中か外か、そのあたり、それで良い」という。プロの裁判官が2カ月やって、それでも部屋の中なのか外なのかよくわからなかった。部屋の中か部屋の外かで状況が違ってくることもある。良く違ってくるのか、悪く違ってくるのか、それはわからないけれど。
どこで殺したのかもわからない。
そしたら、広島高裁が「こんなの判決でない」と破棄しちゃった。「部屋の中か外かわからん、という判決があるか」と。審理のやり直しという判決が出たものだから、それが良いか悪いか最高裁にかかっているのだけれども。
一審判決は無期だった。被害者が1人、検察官は量刑不当で控訴していた。
高等裁判所の裁判官が破棄したのは、「よく調べれば死刑にできたじゃないか」という魂胆だったのか、それとも「きちんと審理しろ」という裁判員裁判に対する批判心があったのか、それはよくわからないけど、破棄した。
はっきり言えることは、プロの裁判官が2カ月やっても、そのくらいの判断しかできないというのが、短期間裁判の宿命だということです。
最高裁が認めた「裁判員はPTSDになる」
しかし、短期間でも裁判員はダメージを受ける。つらい体験になる。
そのことを最高裁はよく分かっている。よくわかっているので、昨年5月、あることを発表した。それは「心のケア」をするということです。
最高裁が24時間体制で心のケアをやるという。夜中に電話がかかってきても受けるという。夜中に眠れなくなる人が出てくるということがよくわかっているということです。「公務員だから、昼間だけにしてくれ」なんて言いません。「医者の用意もします」というのです。
つまり、医療的措置が必要な人が出てくることもわかっているのです。
だけど、みなさん。「救急車の用意をしたので、大ケガをしても大丈夫だから、崖から飛び降りてくれ」と言われて、「それだけ用意してくれたのなら、飛び降りてみようか」と思うか。救急車の用意をしなければならないような、崖から飛び降りる体験を私たちにさせないでくれというのが当たり前のことではないでしょうか。
公のために命を投げ出す人へ…
裁判は、凄まじいものです。その凄まじい制度の中にみなさんを投げ込みたい。
投げ込もうとしている。
どうしてか。
裁判員制度は、治安の怪しげな時代に登場している。
この社会の治安に一人ひとりが責任を負う。治安の維持に責任を持つようにしたい。
世の中を安定した社会にするために、一人ひとりが自覚を持つ。
公のために尽くすこと。公のために尽くすというのは、この国のために、場合によって自分の命を投げ出しても尽くそうという、そういう人格になってもらいたいということです。
ここまでお話しをすれば、そういう体験が実はそんなに古くない時代にあったことが思い出されるでしょう。
みんながこの国を守るために、赤紙で引っ張られていき、命を投げ出した人が大勢いた。あの戦争では300万人の日本人が命を落としている。ただ命を落としたんじゃない。アジアの2千万の同じ人間を殺してだ。2千万人を殺して、300万人が命を失った。
あれは、すべて公のために身を投げ出すことを、奉仕することを、それを求めた結果だった。
公のために命を投げ出す。社会の役に立つ人間になる。そういうような人間に自分が変わっていこうと思う。
こういうことを強調したのは、文部科学省の副読本「心のノート」です。その中に書いてあるのです。そういう人間になっていこうって。
怪しい時代、危険な時代、みなさんの人格そのものを改造しようというところに、この目論見の一番中核、コアがあるということを知っていただきたいと思います。
8割がイヤだという市民の声
80%以上の人が納得しないのは当たり前でしょう。
8割以上の人が消極、これは最高裁のアンケート結果です。82.4%の人が納得しないというのです。アンケートの取り方をいろいろ工夫してね。ドライブをかけるなど、いろいろなことをやってもダメなのです。なんとか賛成してくれる方向にいじくろうとしてもダメ。82.4%の人が納得しない。
そのみなさんは、ご自身の考えの中で、裁判員制度がどう考えても胡散臭い、おかしいと思っている。
私は、いろいろなところで裁判員制度反対を訴えていますが、私の話を聞いてくださった方は、全国70カ所くらい、延べ1万人くらいの人としかお話しをしていないです。私の話を聞いて、なるほどと思ってくださった方ばっかりじゃない。ばっかりじゃないどころじゃない。私の話を聞いてくださった方は極少です。
みなさん方自身が「これはおかしい、やりたくない」と思っている中には、とても大事な珠玉のごとき、玉のようなという言葉がありますけれども。この国を考え、それこそ自分の生き方を考える魂があると私は思っています。
ガタガタになった推進派
昨年7月、当時、福田内閣というのがあったんですよ。みなさんお忘れの(笑)。
どうにもこうにも裁判員制度がうまくいかない。何とかしなければならない。広報・宣伝がゆき足りないんじゃないか。法務省の広報を呼び出してね。
「やっとります。宣伝しています。宣伝しても宣伝してもどんどん悪くなるのです」
イヤ、そう言ったかどうかわからないけど(笑)。言ったんじゃないかなあと私は思っているのです(笑)。
べらぼうなお金をかけて宣伝をして、2千万枚近いチラシを配って、2千枚じゃないですよ、2千万枚。どんどんイヤな人が増えていく状況になっている。
このままでは後期高齢者医療制度問題と同じことになるのではないかと心配したというのです。後期高齢者医療制度問題とは、ご存じのとおり、75歳を越えると年金から保険料を天引きし、所得の少ない人ほど負担が増える構造になるという、とんでもない制度です。
75歳以上は早く死ねというのかという議論になった。
70歳までは裁判員として裁判所に来い、75歳になったらもう御用はないから死ねと(笑)、そういう構造だと取られるおそれがある。おそれも何もそのとおりだ(笑)。
そのとおりなんだけれども、そういう状況にとられることが困ると。困る、困るとあんまり困ってしまって内閣を投げ出したと言われているのです(笑)。
7月にその話が出たら、8月上旬には社民党と共産党が「裁判員制度の実施を見直す」という提案をした。そうしたら、民主党の代表だの幹事長だのが8月上旬から中旬にかけて相次いで「個人的には反対だ」ということを言った。
さあ、どんどん変わっていくな、変わっていくに違いないと思っていたら、12月には国民新党もそう言いだした。社民党と一緒になって他の政党にも働きかけようと言った。
自民党の代議士が私に「裁判員法とはどういう法律ですか」と聞いてきた人がいる。「あんた、賛成に手を上げたんだろうが」(笑)「自分でわからなくて手を上げたのか」(笑)
「よくわからなかった」と言うんです(笑)。
しかし、政党としての民主党がなかなか動かない。民主党がなかなか変わらない理由は連合が賛成しているからです。小沢と鳩山が、敬称略で言いますが、心から尊敬していますが敬称略で言いますけれど(笑)。小沢と鳩山が「見直す」と言った途端に、連合がねじ込んだのです。「日本経団連と連合が裁判員制度推進で頑張っているのに、変なこと言わんでくれ」と。
最高裁と法務省が有識者懇談会を作って「裁判員制度の実施の過程でどこを改善していくかを考える」と発表した。始まらないうちから、どこを改善するか考えるってどういうことか(笑)。これまで準備にかかわっていたのが、みんな無識者だった(笑)。だから、これからは有識者で考える(笑)。ガタガタ、全部ガタガタ。
みなさんの中で、5月21日にもしかしたら始まるんじゃないかと思っている人がいたら、それは間違いです。
始められる状況じゃないんです。実際問題として、始められるどころじゃないのです。
これで始めてごらんなさい。裁判の体を成さなくなります。そのことをだれよりも知っているのが最高裁、そして法務省です。
これでやってよいのだろうかと、みんな思っている。
私と1体1になると裁判官は「高山さん、頑張って潰してください」というのです(笑)
1体1というのは、他に人が居ない時ね(笑)。
でね、今ちょっと、みなさんに相談がある。時間が来てしまった(笑)。ちょっとだけ延ばさせてもらって(拍)。ありがとうございます。私、時間の配分が割と上手なんですけれど、今日は陽気が良すぎるものですから(笑)。ちょっとね、口が滑りすぎて(笑)。
真の市民による司法参加とは
裁判員制度に反対していると、こういうことを言う人がいます。
「今の裁判がまともなものなのか。高山さんは、市民が裁判所に来るのに反対して、そして、今の裁判のままで良いと、『それでも僕はやっていない』という映画を見たけれど、酷いじゃないか。ああいう裁判の実態を維持するというのか」
私は、そんな考えは全くない。そんな考えは全くありません。
現在の裁判は地獄です。でも、みなさん、その地獄の主が裁判員制度を推進しているのです。
地獄の主にみんなが迫って、裁判員制度を実行しようとしているのなら、私もそちら側に立ちましょう。
でも、今の裁判のどうしようもない内容を正統性があるとかなんとか言って、やろうとしているのが裁判員制度なのです。
陪審は市民参加です。市民が参加しています。陪審の命は「権力は悪を犯す」という権力に対する徹底的な不信感なのです。だから、弁護人はディフェンダーとして被告人の前で立ちはだかるのだけれど、弁護人がいてもいいなくても、陪審という被告人を守る楯が立ちはだかるのです。
12人の陪審員をなぎ倒した検察官だけが、つまり、12人の陪審員を説得できた検察官だけが有罪を手にする。そして、「量刑は裁判官に考えてもらう」と、陪審員は消えていくのです。「Good-Luck」と言ってね。イヤ、本当にそう言うかどうかわからないけど、多分、言うんじゃないかなあ(笑)。
楯だから量刑にはかかわらないのです。だから、被告人は陪審裁判か裁判官裁判かを選べるのです。「私は、別に陪審のガードはいりません」という自由がある。
でも、裁判員制度では選べない。陪審は司法への市民参加です。そして、権力が悪をなす事を許さないために、主権者として立ちはだかって、被告人を守る制度なのです。
アメリカの憲法には、「被告人は陪審の権利を持つ」と書いてある。陪審というのは被告人の権利なのです。
裁判員制度の解説を書いたこの東京地裁所長、名前を言っておきますね。
池田修という奴、奴じゃない方です(笑)。このように「方」と言っていたら、日弁連の会長になれたかもしれない(笑)。「奴」と言ってしまったので、落ちたのかもしれない(笑)。
でも、先ほど、「あわよくば」と言われましたが、私は本気でなるつもりだったのです(笑)。「もしかしたら、なれるかも知れない」と思ったんじゃないです(笑)。本当になるつもりだったのですが、話が横へ逸れてしまいますね(笑)。
この池田修が言った言葉は「裁判員制度は被告人のための制度ではない」ということです。すべてはこれで答えが出ているでしょう。
で、私の言いたいことは、市民参加は良いことである。司法参加は良いことである。
ただし、その司法参加というのは、権力は悪を犯すという不信感を持って、これを許さないという行動に立ち上がる。そういう市民参加が本当の市民参加であるということです。
こういう市民参加というのは、実は日本にもあった。
それは戦前の陪審制のことを言いたいのではありません。戦前の陪審制について論ずる時間はないけれども、これはインチキ陪審で、本当の市民参加ではない。
私があったというのは、裁判批判運動です。
「松川裁判」というのがあった。松川裁判については、みなさん、ご存じない方がほとんどだと思うけれど。東北本線、福島県の松川駅のそばで起こった、レールのつなぎ板を外して列車を転覆させた事件です。
乗員が何人も死んだということで、その事件にかかわったとされた国鉄と東芝の労働者が、死刑、無期懲役、懲役15年といった重刑判決を受けた。しかし、裁判闘争の結果、全員が無罪判決を受けた。この裁判にかかわった市民が多くいる。
無罪判決要求運動を「松川運動」といい、「松川を守る会」ができた。私の母親は「松川を守る会」の会員で署名などを集めていた。
裁判を批判する。途方もないデタラメ裁判を問題にする。裁判批判運動は市民参加です。
裁判所を包囲して、とんでもない裁判を行わせてはいけないという意味でいうならば、今、みなさんが司法への市民参加をしておられると、私は思います。
今日の集会に参加されている。それが司法への市民参加です。
司法がおかしくなる、そのことを許さない。それを考え、集まり、会話を交わすこと、これが市民参加です。
裁判員制度を構想した人たちは、こんな運動が起きるとは思っていなかったでしょう。
みんなを司法へ赤紙で動員し、市民が市民を裁くという構造を創り出そうとしたら、こういう人たちが集まってしまった。感謝してもよいくらいです。
これが本当の市民参加、怒りの市民参加、それが本当の主権者の行動であると思います。
4・21全国集会へ参加を
みなさんの手元にはチラシが置かれていると思います。
全国で「裁判員制度はいらない! 大運動」というのが進んでいます。
裁判員制度を推進する本は売れていない。
でも、私が書いた『裁判員制度はいらない』という本は売れていましてね(笑)。これで食っていけるというほどではないのですが(笑)。でも嬉しい話ではあります。
「裁判員制度はいらない! 大運動」の呼び掛けに呼応して、全国から「裁判員制度はいらない」という声があがっている。
弁護士も頑張っている。地元では、丹下昌子先生のような方もいらっしゃる。
屋内の集会、屋外の集会も開催されている。いろいろな集会や取り組みが全国で行われている。
みなさんの手元のあるチラシは、今年4月21日に東京日比谷の野外音楽堂で、全国からみんな集まって、「裁判員制度はいらない」の声をあげて、その1カ月後の施行を阻止しようという集会の案内です。
昨年6月には、同じ東京の日比谷公会堂に1500人が集まりました。長野県からバスを仕立てて来られた人たちがいる。
長野県より茨城県の方が少し近いんじゃないだろうかと(笑)。口には出しませんが(笑)、密かに思っています(笑)。
みんなで声をあげよう。そして行動しようという運動です。
みなさんの気持ちは裁判員制度NO!。しかし、気持ちだけでは施行されてしまう。声をあげなければならない。そして見える行動を必要とします。そう私は思います。
公のために尽くすということが大事だという考え方を持てば、日本の経済が厳しいときには、みんなの生活を守るため、ソマリアだろうが中国だろうが東南アジアだろうが、地の果てまででも出かけていく軍隊を持ちたいという構想を持つ。もしかしたら必要かもしれないという人格が生まれるはずだ。
公を大事にするという考え方の延長線上に、必ずこのような人格が予定されているだろうと、そう私は思います。
このように考えれば、裁判に制度を許さないという行動は、「この国の基本、憲法を変えて、場合によっては戦争だってやる、軍隊を動かす」ということを許さない行動につながっていくことになります。
ぜひ、みなさんの心を一つにして、その仲間になっていただきたい。
国会は、衆議院と参議院がねじれているそうです。どうねじれているか、このねじれ飴のねじれ具合はわかりませんが、確実に言えることは、国会と国民の関係です。
国会で全員が一致して賛成した裁判員制度に、国民の82%がイヤだと言っていることほど、決定的なねじれはないです。
そのことに遅まきながら気づいた政党が見直しだの延期だのと言いだした。選挙を睨んでね。まあそれはいいでしょう。
私たちは、そういう人たちが砂糖菓子のようにどんどん崩れていく様子を見ているけれど、もう一つ、完勝するためには、みんなが身体を動かさなければいけない。
私たちは勝ち組にいるのです。
バスに乗り遅れないでください(笑)。日比谷行きのバスに(笑)。
10分を越えました。私の話は、余計な話を引きますと定刻で終わったはずですが(笑)。
最後までご静聴いただいたことを感謝します。
ありがとうございました(拍)。
(了)
月曜日呼び出され
水曜日判決よ
死刑無期懲役
素人がさばくの
最高裁のいうことにゃ
裁判はやさしいと
スタコラサッサッサのサー
スタコラサッサッサのサー
ところが罰則が
いろいろとついてくる
喋るな 喋るな
秘密、秘密、秘密
裁判員 おやめさない
勝手に 呼び出して
PTSDに なるかもしれないと
さあ 裁判員 廃止だよ
みんなで力を合わせて ラララ…
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