交通事故時の補償解決実績、および著書、講演実績多数 交通事故の弁護士と言えば高山法律事務所

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法廷を包囲する人民の力で勝つ

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法廷を包囲する人民の力で勝つ 松川裁判の教訓 高山俊吉弁護士に聞く

(星野再審ニュース149号 2009/10/15)

 私たちは、星野文昭さんの無罪・釈放を勝ち取るために全国で運動を進め、現在、第2次再審請求の準備をしています。その観点から、松川裁判闘争に学びたいと考えています。

 ──最初に、松川裁判闘争へのかかわりを教えてください。

高山 私は松川裁判の後の世代の弁護士ですが、母が「守る会」の会員だったことや、主任弁護人の大塚一男先生をお若いころから存じ上げていたことなどもあり、中学・高校時代から関心を持ち、私自身が弁護士になるきっかけになった事件でもありました。

 ──「松川裁判闘争」の全体像を知る人は少ないです。どんな闘いでしたか。

高山 松川裁判闘争が大きく広がったのは、高裁以降、とりわけ最高裁に行ってからです。一審福島地裁時代は支援も広がらず、孤立した闘いだったように思います。事実審は高裁で終わりです。最高裁はよほどのことがなければ事実認定で原判決をひっくり返したりしません。軒並み死刑という極限的な状況から闘いを広げて、その壁を突破したのです。
松川裁判の中で、裁判闘争は法廷を包囲する人民の運動で勝つという思想がはぐくまれ、「大衆的裁判闘争」という言葉が生まれました。

 ──当初の闘いは大変困難だったということですね。

高山 当時の政治情勢が重要です。事件直後から共産党が起こしたものと決めつけられ、一方、当時その共産党自身が政治的混迷の極にあって、有効な反撃の思想をもてなかったのです。裁判闘争の現場にも、「この程度の証拠で有罪にはできまい」という思いがあったように感じます。しかし、荒唐無稽な事件でも有罪判決を出すのが国策捜査・国策裁判のこの国です。実際、福島地裁も仙台高裁も死刑・無期をずらり並べました。当事者も支援運動も一旦は絶望の淵に追い込まれました。大塚一男弁護士は大きな打撃を受け、「弁護士活動をやめて、もっと直接的な活動で立ち向かわなければならないのではないか」とまで考えたそうです。

 ──それを、どう突破したのでしょうか。

高山 中心は、被告、家族、支援者の不退転の闘いです。被告が拘置所から出した手紙は15万通と言われます。パソコンもコピー機もない時代の15万通です。仙合弁護士会の会長さん、決して革新的とは言えない方でしたが、この方を動かしたのも被告の手紙でした。家族は、それこそ八方に飛び、全国行脚をして無実を訴えました。
スローガンは「無実の者を殺すな」です。やってないものはやってない、無実の者を死刑台に送ってはいけない、という単純極まる標語です。「どうせ日共の事件だろう」というレッテルをこれで突き破ったのでした。
「現場で勝つ」とも言われました。現地調査が組織され、私の母も参加しています。実際のレールやボルトを見、事件に使われたとされた自在スパナを見て、「こんなちゃちな道具でやれるはずがない」と誰もが確信したのでした。「無罪判決」要求の署名用紙も「公正裁判」要求の署名用紙もあった。運動を支える人々もそれこそいろいろでした。

 ──労働者組合が決起し、広範な統一戦線ができたのですね。

高山 二審判決を前にした1953年6月、国鉄労組の第12回大会が開かれ、「松川事件についての緊急動議」が満場一致で承認されます。さらに7月、総評第4回大会が決議をあげます。56年から、大衆的な現地調査が始まります。これが、希望と確信を生み出し、活動家をつくりだしていったのです。私の家にも、署名用紙が山積みされていました。
この頃から、労働運動を強化することと、松川闘争が重なり合って進みます。60年には、安保闘争、三池闘争と一体になりました。
その中で、学者や文化人、芸術家、宗教者も立ちあがります。『世にも不思議な物語』で知られる宇野浩二さんや吉川英治、川端康成、志賀直哉などの皆さんは、仙台高裁に「公正判決要求書」を提出しています。金字塔は廣津さんの「松川第二審判決批判」でしょう。運動が大きく広がったのは二審判決後ですね。
映画「松川事件-真実は壁を透して」が作られ、370万人が見たと言われます。二審判決直後、撮影のため東芝松川工場を訪れた救援関係者に、課長補佐の諏訪親一郎さんが、「警察に出した団交記録は裁判には出されなかったのですか」とふとおっしゃった。これが松川裁判大逆転のきっかけ、最初の歴史的な火花です。
総評が決議をあげ、「松川事件対策協議会(松対協)」の活動が本格化するのは最高裁の段階です。そして最高裁判決が1959年です。

 ──星野闘争勝利のために松川闘争から学ぶことは何でしょう。

高山 労働運動を軸とした「大衆的裁判闘争」の力でしょう。田中耕太郎最高裁長官は、1955年に高裁長官会同の場で「雑音に耳を貸すな」と訓辞をしました。しかし、その最高裁が検察に対して提出命令を出さざるを得なかったのは大衆運動の力の結果です。「諏訪メモ」を生んだのも育てたのも大衆的裁判闘争です。「東大ポポロ事件」は悪名高い暴処法弾圧事件ですが、事件発生の時、劇団ポポロが構内で上演していたのは松川事件の演劇でした。
星野さんの運動にも、政治的・党派的なレッテルが貼られています。それを突破する力を生み出しましょう。その中心は、「無実の者を35年も獄舎につなぐな」でしょう。
「諏訪メモ」を検察官が入手したのは、捜査のごく初期の段階、もちろん起訴のずっと前でした。彼らは、よくよく無実と知りながら20人を起訴し、よくよく無実と知りながら死刑を求刑した。権力は、政治的な背景を持つ事件では平然と「殺人裁判」をやる。星野裁判における「諏訪メモ」を草の根を分けても探し出したいですね。
残念ながら、星野さんの事件を知る市民はまだ多くないかも知れません。しかし、松川闘争も、今では皆さんがご存じの有名なえん罪事件も、当初はほとんど知られていませんてした。
事件発生時の政治権力と民衆の対峙の状況は、松川事件当時と沖縄返還闘争時とで通じるところがあると思うし、松川裁判の決戦も恐るべき「殺人裁判」に一旦は打ちひしがれたところから本格化しています。
人民の怒りが爆発し自民党は壊乱、天下は大乱の時代です。私たちがいま取り組んでいる裁判員制度反対の闘いも、全政党やマスコミを向こうに回して大前進です。多くの市民が「裁判」のありように関心を寄せている今こそ好機到来と考え、自分たちの底力に確信を持って取り組みを強めるときでしょう。

松川裁判闘争 略年表

1949年8月17日
東北本線松川駅-金谷川駅間で脱線転覆。乗務員3名が死亡。

9月10日
赤間勝美さん逮捕される。年末までに20名逮捕・起訴される。

1951年2月6日
第一審判決 死刑5名、無期懲役5名、全員有罪。

1953年12月22日
第二審判決 17名有罪、3名無罪。

1959年8月10日
最高裁判決 原判決破棄、差し戻し。

1961年8月8日
差し戻し審判決 全員無罪。

1963年9月19日
第2次最高裁判決 検察の上告棄却、全員無罪確定。

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