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交通事故と私

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交通事故と私

 1969年の弁護士登録いらい36年、東京を中心にずっと交通事件に関心をもちつづけてきました。その経験のなかから、かけだしのころのお話をしましょう。

 タクシーの事故で運転手さんの刑事弁護を引き受けることが多くありました。1970年前後といえば、わが国はモータリゼイションのまっただなかでした。60年代後半から東京のタクシーは「神風」の異名もとり、事故も激増しました。交通裁判も厳しい判決こそ交通事故をなくすカギとされていた時代でした。

 夜中の3時すぎ、客が乗車しているのにいねむり運転をして道路工事の作業員を2人もはね、1人を死亡させ、1人に重傷を負わせるという大事故をおこした運転手さんの弁護をした事があります。

 当時の量刑相場で言えば実刑が避けられませんでした。私も被告人の彼も覚悟を決めました。事故の翌日から常務を禁じられた彼は、仲間の営業車の洗車の手伝いや便所掃除など、下車勤生活でわずかばかりの収入をえて裁判所に出廷する日が続きました。判決の日まで事故のことも刑務所行きのことも子供たちに言わないできた彼は、「お父さんは今日からしばらく旅行にいってくるんだ。」と、はじめて自分の<長期出張>を子供さんに伝えたと、判決の後、くちびるをかんでおっしゃっていました。

 いねむり運転で人の命を奪ったり大けがさせたりしたのですから、結果は重大このうえありません。しかし、私は弁護をしながら疑問を感じていました。事故が起きたのは帰庫時間と決められていた午前2時をとうにすぎた時間帯です。定時に帰庫すればノルマが達成できません。当時は2時間や3時間の超過労働は日常茶飯事でした。

  検察官は「眠気を感じたら路肩に車をとめて休めば良かったのだ。」と被告人を責めました。彼は、「お客さんを乗せて走っている最中に、私は休みますとは言えません。」と答えました。検察官は、「それなら客を乗せる前に休めばよいじゃないか。」と執拗に詰めました。彼は答えました。「お客さんがいないかと神経をはりつめて走っているので眠くありません。客を乗せて走り出すと一気に眠くなるのです。」

 過労状態のもとで起きた事故について運転手はどこまで責任を負うべきなのか。道交法には雇い主の責任を問う条項もありますが、それが発動されることはほとんどありません。運転手の責任を徹底的に追及すれば不慮の災害に遭遇する人数は減るのでしょうか。私はその運転手さんに直前の労働の実情をたずねてみました。しかし彼の回答は、「いつものとおりまぁまぁで、特に疲れていたとは思いません。」というものでした。私はタコチャートを調べてみました。驚いたことに、彼の話はチャートの記録とまるで合いません。前日午前8時から19時間以上、あいだにわずか40分くらいの休みを挟んだだけでほとんど働き詰めの一日なのです(その間に昼食と夕食を食べたらしい!)。これではとても正常な労働とはいえません。しかし、彼はその事実を自覚していない。そこにあるのは「過労の自覚を欠く過労」です。当事者の言葉だけで判断してならないとつくづく思いました。

 だんだん見えてきました。タクシーの添乗調査中に空車で走っているときの運転手さんの顔つきを見て、客席の私と世間話をしている運転手さん(世間話も眠気覚ましの努力の一つかもしれませんが)とまるでちがうことに気がつきました。神奈川から多摩川六郷橋をわたって東京に入ってから都の北のはずれの会社まで40キロ以上もの距離をどのような道を通って帰ったのかまったく覚えていないとか、仲間が会社の事務室のフロアまで上れず売上袋をつかんで階段の途中に倒れているのを見かけたとか、立体交差のだいだい色の分岐端標識に車を向けて停まっている同僚車を見つけ、車を停めて近づいて見たら、ハンドルをにぎったまま眠っていたので起こして事情を聞くと、交差点が黄色だと思い停まったつもりでそのまま寝入ってしまったといったとか、「そら恐ろしい」話も山と聞かされました。

 交通事故は、客観的に科学的に総合的に分析しないと、原因も責任も考えられません。交通事故の責任の判断ほど易しそうで難しいものはあまりないともいえます。駆け出し時代に私が痛感したのはそのことでした。しかしその「難しさ」は同時に奥行きの深さでもあり、私を交通事件に強く引きつける原因になるものでした。事実を知ることの大切さと難しさと面白さをともに知り、交通事故の事故解析や民事賠償請求、道交法違反の刑事弁護や行政処分への取り組み、交通評論などへと次第に「はまって」いったように思います。

 交通事件に関わる私のものの見方や行動の物差しは、科学性のない警察・検察の捜査や裁判のあり方を批判し克服すること、被害回復を放棄する保険会社の責任を追及し成果を獲得すること、そして交通安全の実現に向けた市民の力を結集することでした。大きな利便や幸せを実現する文明の利器である自動車は、当然のように私たちに甚大な犠牲を要求する存在であり、それはやむをえないことなのだと、私たち自身思い込んできたように感じます。運命だと思えば、改革の努力は当然弱くなります。しかし、それは実は運命でも不可避でもない。ただ努力してこなかっただけのことではないのか?

  私たち法律家も事後処理ばかりに明け暮れていないで、現状の改革に向けた声をあげる社会的な責任もあるのではないか。お嬢さんを交通事故でなくされた二木雄策さんの著書「交通死」(岩波文庫)などを読むと、あらためてそのことを強く感じさせます。

 ことは交通事故だけではありません。最近の裁判所のあり方や司法の国民に対する責任についても、考えさせられることが多くあります。市民の権利が侵され、損なわれたときに、裁判所がしっかり権利の回復をしてくれなければ、司法の存在意義はありません。司法を犯罪防止や治安という面からだけ考えたり、企業や経済の円滑などという観点からばかり見ようとする風潮が強まっているように感じられ、気になります。皆さんはどうお感じでしょうか。

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